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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2018年5月の記事一覧

恋文

あなたの声が胸に刺さるとき わたしは息もせずに眠りにつく あなたの声が届かなくなったら わたしは存在する意味を失くすだろう あなたの眼差しに捕らえられたら わたしはその瞬間から身動きできない 捕らえられる喜びに震え あなたの視界に棲む許しに息をつめる あなたが何か言葉を口にする前に その唇を閉じてしまいたい それが告白だったとしても とても聴く勇気がいまはなく あなたを見ているだけで 恋慕の心がふくれ過ぎ  押しつぶされそうな弱いわたしがいる 張り裂けそうなわた

空をください

空を失くした子どもがふさぎこんでいた 夢を見失った子どもがうずくまっていた 光を見失った子どもが瞼を閉じていた 行く宛てを失くした子どもが 地図をやぶいて捨ててしまった こんなの意味ないやといいながら そこにあると信じた空は どこかはるかに消えて行き 拠り所だった場所は 見渡す地平のどこにもなかった 風はまだ冷たく感じるけど 空はこんなにも澄みきっている 光もあたたかくはないけど 日はどんどん差してくる 道は前も右も左も遥か向こうまで 続いてつながっている 夢がなくな

縁というもの

「縁はつながるものではなく、つなげるものだ。」 人まかせ、運まかせで、 縁はそうそうつながるものではない。 縁をつなげたいという意思が行動を起こさせ、 縁が生まれるのだ。あの人と会ってみたい、 話をしてみたいという想いがそうさせる。 誘われたからという消極的参加であっても、 そこには行くと決めた自分の小さな意思がある。 小さくともその意思が大切なのだ。 それが縁を引き寄せるきっかけとなる。 だから縁をつなぐことができるんだ。 そして、必ずそこには「言葉」が介在する。 「

たんじょうび

そらが わらった わはは と、わらった かぜが ささやいた ひそひそ と、ささやいた あおばが ふれあった さわさわ と、ふれあった もりが さざめいた ざわざわ と、さざめいた きょうは ぼくのたんじょうび おひさんが ほほえんだ にこにこ と、ほほえんだ ひばりが うたった びちびち と、うたった しろいくもが いねむりした すやすや と、ねいきをたてた はなが ゆらいだ ゆらゆら と、ゆらいだ きょうは だれかもたんじょうび

母の日に

一家は母親で決まるという。 この言葉は真理だ。 一家は母親でまわっている。 母親が病めば一家も病む。 母親が笑顔で元気であれば 一家も笑顔で栄える。 男はその真理を軽く考えがちだ。 だけど母親が年老いてくると そのことが身に沁みてよくわかる。 母親が高齢になっても 笑顔で元気な家は灯が消えない。 温もりもある。 帰る場所がある。 生きるとはそういうことだ。 「母の日」に感謝しかない。 ありがとう。

見て見ぬふりする者は 何が大切なのか  何もわかっていない 聞いて聴かぬふりする者は 何が大事なのか  何もわかっていない 知って知らないふりする者は 何が重要なのか  何もわかっていない いつも通りすぎるだけの者は 傷つかないままの一日を 幸せだと思いこんで一日を閉じる 愛を信じない者は 自分が生きているわけを知ろうとせず 自分の存在が欺瞞だと語る 理想を描かない者は 現実をそれほど見てはいなくて 過去を悔いてばかりいる 未来を信じられない者は 未来に生きる場所