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遊びとは何かを考えながら、歩く

ウォーキングをしていたら、複数の鳥がさえずりあう鳴き声が耳に入ってきた。今は初夏。鳥が活発に動き始める季節だが、とにかく賑やかだ。半径500メートルの中に、一体どれだけの鳥が生息し、鳴いているのかと思う。そして、この世界には人間社会のほかに鳥社会、虫社会、植物社会といった複数の社会が並列で存在し、一定の規範のもとで息づいていることを実感する。いや、たくさんある生物社会のほんの一つが人間社会というべきか。

そんなことを思いながら初夏の田舎道を歩きつつ、私は思考モードに入った。テーマは「遊び」である。

歩いていると、鳥の鳴き声がBGMになる。

最近の自分の生活を振り返ると、「遊び」の時間が減ったなあと、つくづく思う。現在、私が多くの時間を費やしているのは、いわゆる「仕事」か「タスク」か「交遊」だ。言い換えれば、社会生活を円滑に過ごし、社会的責任を果たすために時間を消費している。つまり「目的」が別にあり、その「手段」を遂行するために時間を割いている。
本業と私が位置づけている文筆業も、書いている先には「メディアに掲載して読まれる」という目的がある。依頼原稿には報酬を得るという主目的もあるが、ブログやnote、SNSなど、自主的に書いている媒体も基本は同じ。読まれるためだ。また、最近増えてきた地域活動も、地域の一員としての責任を果たすという崇高な目的が存在する。このウォーキングもそうだ。運動不足解消という目的達成のため「一日に8000歩歩くべし」と自分自身と約束し、それを守るために歩いている(あまり守れてないが)。
もちろん、そうした仕事やタスクだけで一日が終わるわけではない。睡眠や食事(料理や後片付けを含む)や掃除などのほか、ダラダラ過ごしたり、車で移動したり、SNSを見たり、買物をしたり、テレビや動画を見たり、音楽やポッドキャストを聴いたり、誰かと会話したりする時間もある、というかこちらの時間のほうが多い。そしてこちらにも「目的」が存在する。ダラダラするのはリラックスするためだし(と自分に言い聞かせている)、SNSやテレビ、動画、ポッドキャストは情報収集、会話はコミュニケーションの一環だ。観たい映画やドラマを一心不乱に観ていたりサウナで整っている状態が「遊び」に最も近いかもしれないが、何だかしっくりこない。そもそも映画鑑賞やサウナって、遊びなのだろうか?

こんなことを考えたのも、最近読んだ書籍「ひとりあそびの教科書(宇野常寛著)」に影響されたからである。この本は「14歳の世渡り術シリーズ」の一冊であり、14歳の少年が読んでも理解してできるよう平易に書かれている。しかし、大人が読んでも刺さる。しかも、より「ぐさっ」と刺さる。というのも、最近の私も含め多くの大人は、「遊び」はしているが「ひとりあそび」をしてないと思えるからだ。

この本で著者が提唱する「ひとりあそび」とは、目的を持たずに一人で遊ぶ行為である。つまりは一人で行う趣味のようなものだが、遊ぶ行為自体が「目的」であるのがポイントだ。具体的に著者は「ひとりあそび」の例として、ランニング、虫採り、一人旅、プラモデル作りなどを挙げているが、遊んだ先には、誰かに自慢したり、SNSで発信したり、情報収集するといった目的はない。ただ純粋に遊びを楽しむためだけに、時間を費やしている。
こうした遊びの時間が減っていること、言い換えれば、目的を持たずに遊んでいる時間が減っていることに危機感を覚えたのだ。私はフリーランスなので「ひとりあそび」をする時間は十分にある。しかし、どうやら自分の心の中に、思う存分楽しもうとする自分にブレーキをかける「もう一人の自分」がいるのだ。いわば、ハメを外さないよう監視する番人がいる。だから、どんな遊びをしていても熱中できず、面白いと思ったり快楽を得ることはあっても、没頭には至らない。しかし、「ひとりあそび」に必要なのは、とことん何かに熱中したり、没頭できる資質であることは間違いない。この本を読み、この資質が最近失われつつあることに気付いて「ぐさっ」ときたのである。歳はとっても、何かにワクワクしたり夢中になれる心は失いたくないものだ。

ここまで考えたとき、「ひとりあそび」を補完する、ぴったりの言葉が思い浮かんだ。「偏愛」である。

私は、この言葉が大好きだ。単なる好きのレベルではなく、その人の人間性が感じられるからだ。「ひとりあそび」をするには、根底に「偏愛」がなくてはならない。だから、サウナやウォーキングは「ひとりあそび」では決してない。「偏愛」の境地に達してないからだ。例えば、サウナに入るためフィンランドに定期的に通うとか、村じゅうの道を歩き尽くすとかすれば、やっと「偏愛」の入口に立てると思う。ただいまの私は、その域には達してない。

おそらく「偏愛」の境地に至るには、日常生活のバランスを崩し、心のタガを外し、時間を忘れて没頭しなければならないと思う。そして、これこそが難関なのだ。
とかく現代人は、やりたいこと、やるべきことが多すぎる。話題のドラマや映画をチェックしたり、ベストセラーに目を通したり、ニュースや市況を見たり、交友関係を維持したり、近所付き合いを欠かさなかったり、空き時間にはスマホを見てコメントしたりと、多方面に目配りしないと心が落ち着かない。

だから、本や映画を読んだり観たりするだけでは「ひとりあそび」とは言えない。そこから一歩突っ込み、本や映画の背景や著者や世界観などを自分なりに追求しないといけない(「ひとりあそびの教科書」でも、著者はそのことの重要性に触れている)。
つまり、単なる「好き」の一線を超え、そのことに時間や資金を贅沢に使うくらいのマニアにならないと、「ひとりあそび」の醍醐味は味わえない。いまの自分には、この一歩突っ込む行動力と勇気が決定的に欠けている。まずは、一線を超える時間を大胆に確保するから始めよう。

そういえば著者の「ひとりあそび」には、ひとつの特徴がある。それは、人間以外の「生物やモノ(フィギュアなど)」を相手に遊んでいることだ。そんな著者の「生物やモノ」への偏愛ぶりは、「人間社会という枠内で生きていたって、つまらないぞ」と暗に読者を戒めているようにも思える。
考えてみれば人間社会とは、一般常識と配慮と責任と忖度の社会である。しかし現代では、ロビンソンのようなひとりぽっちの生活は不可能だ。ただ、人間以外の社会に触れることはできる。著者の言葉を借りれば、その時には世界の豊かさを実感できるはずである。

そんなことを考えて歩きながら、私は人間以外の社会の一端に触れようと、鳥の鳴き声に耳をそばだて、鳴き声の微かな違いを認識し、鳴いている理由を想像してみた。果たして今の鳴き声は、求愛なのか連絡なのか威嚇なのか…。これがわかるようになれば、私も「ひとりあそび」の入口に立てるだろう。

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