独り生活で、またひとつの成長?-この器の嚥下障害


こういう話も滅多に人にしない(そもそもその理由がために縁がないので、そういう話題自体、起こらない)のだが。

この器は、正月のシーズンがどちらかと言えばずっと苦手だった。

なぜなら、正月料理だらけになるから。

この器は、日常的によほど支障があると見られるわけではないが(見られないからこそ厄介なときもあるのだが)、嚥下障害がある。
恐らく脳性麻痺からのものだろう。

意図したタイミングで嚥下することが難しい(意図してもそのタイミングで飲み込むということができないことがある)、
何かを飲み込む時にはしっかりはっきりと意図してから、要するにそこに一時集中して飲み込む必要がある上、大きな物やたくさんのものは難しい(おかげで大量服薬は重大なものはできずに来たので助かった)、
嚥下がゆっくりはっきりと行事のようになされるからか(人に比べて)、食べることが遅い(今は視覚の問題もあるので尚更遅い)、
食感によって、飲み込みにくいものが良くあるため、特にパンなどは種類によっては苦手意識があるものが多い、
食事中の会話はなかなか難しい、

…などなど。
そして、こんなこともみんな同じなのだろう、と思ってしまってきたため、ひとりだけ給食の時間が過ぎてその直後の20分休みですらも終わるくらいまで必死で食事をしていた(しかもこの20分休憩、確か机を全部ぎゅう詰めに教室の端に詰めて掃除を行っていた時間帯でもあった記憶がある)ような毎日でも、自分が遅いだけなのだ、と思い、実は嚥下の問題であると思ってもいなかった。

そして、話を戻すと、
正月料理というのは、(どうしてこれが嚥下しづらいのかはわかってもらいにくいのかもしれないが)、小魚を固くしたもの(名前がわからない)や、栗きんとん(芋きんとん?)、カズノコ、かまぼこなどなど、飲み込みにくい(苦労する)ものが多い。

極めつけに、餅である。

このシーズンばかりは、なぜだか食卓に米が消えて餅になる。

この器にとっては、料理自体は目の前にたくさん並ぶにも拘わらず、ひもじい時期以外の何物でもなかった。(笑)


それが、成長してからだんだん、時たま団子や大福などは口にするようになってきたからだろうか…それとも、身体が勝手に工夫しながら何とか少しずつ食べられるものを増やしてきたのだろうか、
ここ最近になって、僅かずつではあるが、餅を食べることもできるようになってきた。
とはいえ、積極的に欲しがることはないのだが。


それが、先日、シェアハウス内の隣人から、切り餅のお裾分け(袋にたくさん入っており、消費しきれないという意味での)をいただいた。
いつも通り、朝起きて部屋を出たら扉にかかっていた。

そんな話したことがないので、さすがの隣人もこの事情は知らない。

どうしようか、実家に持って行くかなどとも考えたのだが、もし本当に独り暮らしをしていたとしたら、絶対にこんなものは仕入れない。

せっかくの機会だ、少し試してみよう、と、ありがたくいただくことにした(それでもなかなか多いので、実家にもお裾分けに行くのだが)。

そんなわけで早速、丁度その日作った鍋に、入れて、一緒に茹でてみた。
切り餅ひとつ。
こういう考え方をしてみると、ああ、これは米(主食)の代わりになるわけだ。
私は実は案外良く、鍋を作る時一緒に米やオートミールを入れてしまう(参鶏湯のようなおじやのような)のだが、これが餅であっても、なるほど、主食も鍋も器がひとつで済むわけだ。
小さく切って茹でれば、一緒になってくっついたりしないということもわかった。また、私の茹で方が短いだけかわからないが、そんなに柔らかくならないので、固くなった団子のような、細かくかみちぎれば完全に個体扱いで食べることができる、という発見もした(逆にこれ以上茹でたら柔らかくなるのかもしれないが、その挑戦は恐らくしないだろう)。

ここでこんな頂き物をしたのも、少し試してみる段階・時期を示唆されているのかもしれない。
今年の年末年始は、少しずつ、餅を取り入れる遊びをしてみようかと思った。

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