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日常記録(障碍理解・活動記録を含)

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日記のような形で日常の出来事を記録。 障碍理解に関しては、こちらの方が細かい部分で見えてくるものが違うかもしれない。
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#身体障害

「視覚障碍」「見える・見えない」「見ることができない」とは、どういうことか

「見る」に対して「見えない」という対比的に言葉を浮かべてしまうのだろうと思う。 視覚障害…

平和と感謝と支え合いの世界の一端を願う、すべてのひとたちへ

社会におけるひとりひとりが、ありのまま、自分自身の人生を ​ 人と人とが、互いに心地良い…

Easy Going Life Community、座談会第1回

Easy Going Life Communityで始まりました座談会の音声アーカイヴ、第1回目の第1部を動画化、…

障碍・社会的マイノリティの窓口

私は、Easy Going Life Communityという、コミュニティを主宰しております。 この活動自体、…

白杖使用者の荷物

あるかたと、少し話にのぼったので。 私は、外出時、大抵、前と後ろに荷物を持っています。 …

”障害”の捉え方、対等なコミュニケーションー日本点字図書館にて感じたこと

日本点字図書館に行ってきた。 インターネットで用具の購入などには利用させていただいていた…

「見えない」という言葉の難しさ

私はずっと、「見えない」という言葉と、「見ることができない」という意味の間に、違いを感じてきた。 言語化はできないのだが、見えない、と、見ることができない、は、私の中では明らかに違う。 それは、「視機能使用困難状態」だから、という事情とは、少しばかり違うような気がする。 私の場合は、視覚の問題は先天的にあった。 ただ、ヒトというのは、自分の器(身体)以外を経験したことがないので、身体の状態は他人のそれとは比べようがない。 しかも、私の場合は、症状が未知数の脳障害があり、

「視覚障害」と枠づけることができない視覚の障害

私は以前、「視覚障害と(国の定めた分類法では)枠づけることができないが視機能の障害」につい…

日本での「社会生活」困難者としての呟き
身体障害などは…特に私は視覚が大きいわけですが、「できる」か「できないか」ではない
工夫と周囲の方々の支えを求めることが許される環境ならば、できないことはそうそうないと感じています
「工夫することがどこまで許される場なのか」なのだと感じた

NPO法人「目と心の健康相談室」

NPO法人「目と心の健康相談室」という場所を訪ねてきました。 その前に… 理由、経緯としてか…

視覚障害者の生活の工夫―コーヒードリップ②

以前、コーヒーをドリッパーで淹れることが、私にとっては曲芸技術を極めるような、まるで綱渡…

白杖使用者の日常―エレベーターの出入り

#視覚障害者が嬉しいと感じた配慮 #障害理解 駅のエレベーターでのエピソードを2つ。 1つは…

社会的マイノリティのつぶやき

そう。とても言葉にすることが難しいが、 必要以上の配慮 というのは、 怖いのだよな。 配…

ずっと不思議だったこと―なぜ私は音楽療法を学んだのか、なぜ私はセラピストをやっているのか

先日、実家でまた新しいこの器の過去が発覚した。 この身体、幼少期、身障者福祉センターにずっと訓練に通所していた。 その中で、どうやら、「音楽療法」と名のついたカリキュラムがあったらしい。 ただ、まあ今の目線から言えば、とてもではないが音楽療法と名をつけてはまずいだろうと感じてしまうようなもの。まあ…日本の音楽療法(社会的な浸透という意味では特に)は大きく遅れているので、もしかしたら今もそんな施設があるのかもわからないが…。 まあ、ともかくやっていたことは、子どもたちを一か所