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38℃



空のバスタブ、鈍い暖色のライト、薄ら黴臭いあひるの玩具、規則的な機械音、ぽつり浮かぶ夕暮れ。
そこに有り続ける物に身を預けて、体の重みを再認識したい。


足を曲げてがらんどうの風呂底に仰向けになってみる。切り取られた空間にすっぽり納まると気持がいい。
つま先から徐々に水位が上がってくるのを待つ感覚は、砂時計の砂が降り積もる様子を眺めている時と少し似ていて、ただひたすら、真剣な面持ちでその時を待ってしまう。


手の平に納まる程の小さな宇宙。
肌へ滑らせると星が散り散りになり、時折鉱石のようにも見える。
爪をしまうようにしてどんなに優しく扱っても、触れる度にきらきら砕けていく。
あと何回銀河を泡にし溶かしたら、無くなってしまうのだろうか。


熱源により目の前で満たされゆく何も無い空間。

溶け出した意識の端で小瓶の蓋を捻りながら、脳裏に稚拙な祈りを描く。
指の先程度でいい。それだけでも今はいい。


肉体と精神よ、どうかお願いです。
暫しの間、私のことを忘れてください。




注がれ続けてもなお無機質な温かさが、此処にある全てを覆い尽くした。


先程まで確かに有った筈の影と花は、いつの間にか何処かへ流れていったらしい。
変わりに投げ出された重い額縁のような身体が、ただそこで水を弾いている。


満たされた器、内より赤らびる四肢、鼻腔を抜けるローズウッドとカモミールの波、すぐ傍で擦れるぬるい音、沈んでいく本日。
過去はほどけて戻らない、一瞬でも放たれてしまえば。


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