ピンクノイズ


 窓の外は明るい闇に包まれていた。変わることのない都心の喧騒を濃いものにする空の色。時に再び呑み込んでしまおうと、真上から降り注ぐ明かり。ぽっかりと浮かんだ闇を見つめていると、どこか視界が歪む気がして、それとなく目を逸らしてしまう。逸らした先にも闇は浮かんでいるから、意味などないのだけれど。
 ノイズ混じりの機械的な声が響く車両には、苛立ちと諦めの気配が満ちている。それらはジリジリと肌に侵食して、凝り固まった右肩を更に重たいものにした。自分がどんな顔をしていたか、どんな表情をしているのか、思い出すことも想像することもできない。奥深く続く空虚な夜に、素知らぬ顔して寄り添う十九時。
 映し出される情景を、ありふれた日常として処理していることにふと気が付いてから、少しの虚無感が胸を掠めた。思考が過去と現在の仄暗い場所を行き来しているような、そんな帰路。
 歩を進める度に、時が逆さまに戻っていく。解き放たれては回遊する毎日が繰り返される。

 デスク脇のブラインドが微かに揺れた。光がするりと滑り込み、現時刻を告げている。なぜだか良い夕焼けが見られそうな予感がして、そそくさと仕事を切りあげた。背後の上司は、時が経ち徐々に萎む風船の如く、薄く長く息を吐いている。その背中へ向ける虚ろな視線。揺れる思考の流れを断ち切り、強ばった体を引き摺りながら部屋を出ていく。
 底冷えしそうな空気の中で、無意識に遠くへ目をやると綿菓子をちぎったような雲。風に運ばれ橙色へと緩やかに溶けている。思った通りで、少し頬が緩んだ。数歩先で一人の男性が、空に向かって携帯を掲げている。この空模様で安堵したのは、私だけではないらしい。
 あの雲のように空へこの身を全て預けて、意識ごと溶かしてしまいたい。己の意志で空洞になるひと時が欲しい。逃避する術を一つ一つ考えながら、佇む男性と同じように足元へ目をやる。風が渦巻いて、爪先に僅かな暗闇の兆しが見えた。体が徐々に透過していくような、しがらみから解放される感覚が心地良い。暫くの間、遠くを見つめていた。

 昔から、陽が暮れていく様子を観察するのが好きだった。分刻みで移ろう空の色は心の行先を左右する。暗闇の到来に比例しながら、低くそして深くなっていく空に対して、恐怖を感じなくなったのはいつからだろう。迫り来る寂しさから逃げるように、目一杯自転車を漕いでいた幼少期を思い出す。
 それより云年を経た今。橙から藍に、藍より漆黒に呑まれる空を、どこか心待ちにしている自分の存在が居る。数え切れない程の長い夜が、私をそうさせたのであろうか。靄がかった頭で考える。流れる時間が雨のように降り注ぎ、記憶が滴り落ちていく。思考に溺れる度に、生温いような鈍痛が頭を締め付けた。

 七分遅れで駅に到着した電車を降りて目にする、見慣れた光景。縮こまっていた臓器が膨らみ、全身を巡る血液の存在を強く感じた。遠目に見える動物病院の看板を眺めながら、一度大きく深呼吸をしてみる。冷えた空気が鼻腔を抜け、自然と目が潤む。透明な空気を浴びて、意識が通う瞬間が心地よい。
 数十分前まで嘘のように明るかったであろうこの場所にも、等しく夜が落ちている。黒々とした建物の奥に、いくつもの影を想像しながら歩いた。突風に背中を押されて、皆一同に帰るべき場所へと急く様子が、私を更に足早にさせる。コートの裾から突き出す指先が酷く冷たい。
 かじかむ指先で探り当てたキーケースに、街灯の灯りが集まっていて綺麗だ。そして微かに恐ろしい。あの日も同じ景色を見たような、そんな気がするから。
 記憶の中でも、少し後退りしたくなる景色がある。目の前に佇む扉は、まるで闇を吸い込んでいるかのように重々しい。ドアノブに手をかけると、ひんやりとした心地が指先を伝った。足早に歩を進めたことで昂った頭がすとんと落ち着いていく。窓より差し込む淡い色。白いヴェールをくぐり抜けた。

 毎日とても長い時間を費やしてここへ戻ってくる。そして明日も時の流れによって、同じように運ばれていく。あるべき場所に収まり、ぴったりと重なる身体。薄暗い部屋の隅で、影が炎のように揺れた。
 ノイズすら聞こえないこの空間で、何かに呼ばれた気がした。いや、引力に抗えず吸い寄せられているんだ。導かれるようにして、過去を刻む窓辺のソファに滑り込む。煤けた背もたれに顔を近付け、ぬるりと空を覗き込むと、高い場所にはチーズを溶かしたような満月。滑らかさを帯びて浮かび上がり、柔く周囲を照らす。目を逸らすことのできない、数少ない景色。
 先程まで暗所で静かにしていた感情が、微睡みを纏いながら背後より顔を覗かせた。寝惚けたような顔をして、何か言いたげにこちらを見つめている。浮かばれない過去の産物。捨てられないいつかの自分。再び此処へ来た時、私は彼女を抱きしめることにしている。いつほどけて崩壊してしまうか分からない、綿のように柔らかな存在に手を伸ばして。

 外はどこまでも続く暗闇に包まれ、それが微かな明かりを際立たせている。ここはぽっかり空いた夜の穴の底だから、見えるものが限られているところが好きだった。今傍にあるものへ寄り添うように顔を傾け、目線で愛撫する。
 炎の揺らめきと心音が重なる。視界の端で指先がくゆる。その度に目線を奪われて、沈殿していた影は部屋の中に散らばった。ひと時の幻想はどこにも存在するらしい。足を動かすほどに遠ざかるものとは違い、手を伸ばしたり離したりするだけでよい。
 ノイズに塗れて確かめる、私の中の明暗。瞼を揺らして気が付く、時が進んでいることに。手放しては取り戻す、またここに戻ってくる。回遊を繰り返して、光と闇に身を預けるだけ。
 夜の中で守られている私たち。影絵で遊ぶ貴方の顔がよく見えた。

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