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始発


車両が線路を進む音、朝が来る。
生き物の気配が徐々に押し寄せ、予定調和的に昇りゆく陽が、一晩の内に沈み込んだ鈍色の夜を掻き消した。


部屋の中、布団の中、硬直する身体。どんな方法を試せど何ひとつ消え去る事がない。
本時刻に至るまでに得たもの全てが、圧迫され詰め込まれ、膨れ上がった脳内。
それは自身の一部であるが、ここで言う“それ”とはまるでかけ離れた、一つ別物の固体として動き出す。

この世界の刻が止まる事のないように、それがさも当たり前の如く、永遠と続いている。

人、感情、生活、それらを分け隔てる壁。何もかもに囲われゆく時の流れ。
そのごく普通の状態が、生命として、今ここで呼吸を続ける、一人の自身という人間として。
どうも、どうにも、耐えられる物ではなかった。


甘い甘い証拠、なのか。何度かに分け何種類かの薬を胃に入れる。毎晩聴いて眠るアラベスクを鼓膜へ緩やかに流し込む。駄目だった。
渦巻いて加速する言葉たちが、全てを途方もなく深い場所、歪み凝固した精神の海に沈ませてしまう。


硬直し続けた身体が痛みを覚え、喉の粘膜が張り付く感触がする。ひたすらに気分が悪い。
置き放しになったグラスに氷を入れて水を雑に注ぎ込む。鋭い冷たさとまだ緩い液体が、空っぽの胃の中でぐるりと混じった。
ふらふら誘われるように外へ足が向く、と言ってもベランダであるが。



静かな早朝の外気はこびり付いた現実を無感情で撫でていく。
それらは徐々に剥がれ落ち、いつしか“個“のみを感じるようになった。
心地が良かった。
まるで別物の、何もない世界へ私一人が落ちたように。
緩やかに心が凪いでいった。



眼前に滲み出て広がり変わることのない生き物の気配は、こんなにも、あまりにも、濃密だというのに。




どこにいるのだろう、ここは何処なのだろう。





液晶パッドと30cm程の距離なのにも関わらず、目が悪すぎてタイピングが上手くできない。
移動してからどれぐらいの時間が経ったのか分からないが、部分的に露出した肌が痒い。
普段ならとっくに騒いでいる筈だ。だが何箇所などと気にならない程に、知らぬ間に食われてしまっていた。


他者と共存している証明、生活の音が忙しく耳を打つ。
太陽が高い場所へと移動し世界を照らしている。



最近一日を終えた時にここへ出て、初めてまともに目を開けた事に気がつく。そんな事が増えた。
映し出す物としてはっきりと、ここにあると理解できるものがこの場所からの眺めだ。


私は、今正常だろうか。それともおかしくなっているのだろうか。


現実的な事柄は洪水のように押し寄せて離れない癖に。
心が苦しい。

今の私にとり、苦しいと感じる現象自体は、ただの愚かな行為と同等であることに他ならない。



いつ終わるのか、途切れてしまうのか、誰にも、何も分からない時の中で、
貴方はどう呼吸をし、四肢を動かし、その足が歩む方角を、その一歩の行く末を、見定めていますか。


誰がいるのかもわからない電子の波の中に、自分自身の中に、こうして馬鹿真面目に問いかけている時点で、
私は今きっと、正常ではないのでしょう。


生まれてみたいから、生まれてきただけ。
そんな風に思い返せる人間には、もうなれない気がする。



知らぬ間に生まれ落ちたのだから。
身体が生きろ生きろと急き立てるから。
気付かぬ間に心の表皮が灯す暗明を知ってしまったから。
その暗闇と明かりが皮膚を抉り貫いて引き留めるから。






薄煙が揺ら揺ら風に流れて、
過去へと運ばれてゆく。


そう。日々もまた、それに同じ。



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