真夏に飲むホラー
ところで皆さんは「ほ」という文字を真剣に書いたことはあるだろうか。やったことのない方はぜひやってみてほしい。「ほ」という文字を何度も書いていると、そのうち「あれ ”ほ” ってこんな字だっけ?」と「ほ」に疑いの感情が生まれてくるのだ。あれ? これ「は」じゃない? みたいな。で「は」を書くと「ほ」の眉毛を書き忘れたやつ…みたいに感じてきて「は」も「ほ」も全部疑わしくなってくる。では「は」に眉毛を付けたら「ほ」になるのか。それはもう「め」に眉毛をつけたら「あ」になると同義語だ。では、「の」の顔に傷を付けたら「め」になり「う」の顔に傷をつけたら「ら」になるのか。
考え始めると、目がナルトになりサイケデリックなしましまの渦に落ちていく感覚に陥る。
関東甲信越でも梅雨が明けた。
夏と言えば心霊業界、そして雑誌『ムー』が活気づくシーズンだ。
どれ、私も一つ、ホラー話でも語ろうではないか。
皆さんは昨年上映された『三茶のポルターガイスト』という映画をご存知だろうか。けっこうグダグダな作品だったのに、先月バージョンアップされた『新 三茶のポルターガイスト』が全国でロードショーされた。
内容はとあるビルで起こる心霊現象の実録なのだが、実はその現場の真上で数年仕事をしていたことがある。当番制のライブバーのオーナーで、月に一度順番が回ってくるという変わった制度のバーだった。オーナー仲間とは頻繁に交流していたので自分の当番日でなくてもお店に足を運ぶことは多かった。時々、下の階での怪奇現象を耳にすることはあったが、バーにはまったく影響がなかったので私は聞き流していた。というか、興味がなかった。そもそも、階下の芸能事務所というよりこのビル全体がヤバいというのは、地元では有名な話だった。
問題のポルターガイストの詳細については映画を観ていただいた方が絶対に面白いのでそれを観て頂くとして、その現象のひとつに ”匂い” というものがあった。何かが見えたり起こったりする前に、必ず線香の匂いがするというのだ。
これについては私も覚えがある。
例えば、神社に行くとなんとも言えないいい匂いがしてくることがある。あるいは、亡くなった歌手の話をしていたら香水の匂いがしてきたりすることもあった。匂いというのは、なんらかのサインとしてわかりやすい。
昨夜のことだった。
私は丸めたタオルケットを抱えながら、なかなか寝付けずにいた。うだうだと寝返りを打ちながらまぶたが重たくなってくるのを待っていると、ふいに部屋がいい匂いに包まれた。それはデパートの化粧品売り場の匂いでもなかったし、インドの小物が売られいるアジアンテイストなお店の匂いでもなかった。それは、とにかくいい匂いだった。
私はベッドから起き上がり、スィーーーッと大きく息を吸った。
いい匂いだ。
匂いはなくなる気配がない。
何に似ている匂いかというと、それは唐揚げを揚げている時の匂いにそっくりだった。奇しくも寝る前に見ていたYouTubeは、リュウジのバズレシピの唐揚げ回だった。
「唐揚げかなぁ…」
私はよく匂いを分析してみた。
小麦粉が焼ける匂いがする。唐揚げ…というよりは、オーブンでこんがりと鶏肉をグリルしている時に染み出る脂の香ばしい香り。
時計を見ると深夜2時過ぎだった。
こんな時間にオーブン料理をする人がいるだろうか。というか、それはまさか私ではないだろうか。え、私、知らないうちに料理していたかな。
心配になってキッチンに行ってみる。
普通に真っ暗だった。
というか、寝室に立ち込める匂いは一切しなかった。むしろ、キッチンなのに食べ物の匂いがしなかった。今日はいただきものの鰻を食べたのに、鰻のうの字の匂いもしなかった。あれは本当に美味しい鰻だった。もう一度食べたい。
寝室に戻ると、相変わらずいい匂いが充満していた。
窓も開いていないし、これまでも隣の家から食べ物の匂いなどしてきたことはない。まさか私のおなら? いやいや、鰻を食べた腹からどういう化学でチキングリルの匂いに進化するの。強いて言えば、隣のアパートに住むのは外国人なので自由な感覚で夜中に料理を始める可能性がないこともない。ひょっとして急に祖国の鶏肉料理をもよおした、みたいなことも考えてみたが、隣のアパートの灯りは消えていた。
仮に、これが心霊現象だったとしよう。
だとしたら、こんな美味しそうな食べ物の匂いって何。それも、出来上がりの匂いじゃなくて、調理最中の匂いって何。これが宜保愛子さんなら「どうしたのかしら。あなたは何を訴えているの?」と優しく問いかけただろう。脳内愛子を演じてみても、さっぱり答えはわからなかった。
いい匂いはしばらく寝室に残っていた。
いいかげん、鼻が慣れてきたのか違和感がなくなってきて私は眠りに落ちた。
ハッ…もしかしてこれ、「ほ」が怪しくなってくる感じと似てるんじゃない? 匂いを匂いとして認識できなくなってくるこの感じ。「ほ」を「ほ」として認識できなくなるあの感覚。いえ「め」が「あ」に、「う」が「ら」になってどっちがどっちだかわからなくなるこの感覚…。鰻の匂いなのか、それとも鶏肉がグリルされる匂いなのか、ああもうわからない。
何もかもが、サイケデリックな渦の中に堕ちていってしまうのよ。
ということで、今日は鶏肉を料理したいと思います。
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