「多声的な歴史叙述のために ―フィクション・フェミニズム・日本中世史」を読んで  その2

『歴史評論』という雑誌に掲載された一部に話題の、

多声的な歴史叙述のために ―フィクション・フェミニズム・日本中世史―For a Polyphonic Historical Narrative: Fiction, Feminisim and Japanese Medieval History 
杉浦鈴

の感想 その2

引き続き「一 女性差別・実証史学・日本中世史」に関して
前回、

「学会の実証史学中心主義と「女性差別的な文化」は強く結びついているのではないかという疑念」

を問題発言だと指摘した。この著者の見方はフランスの歴史学者イヴアン・ジャブロンカによって補強される。というよりかもっぱら彼から来ているのだろう。ジャブロンカ氏によれば、

「文学と科学の区分は「根本的に性的なもの」であり、「詩を心を惑わす女性に、真理を厳格な男性に結び付ける」と論じている」

だそうで、これを受け著者は

歴史の科学性が強調されるとき、その根底には男性性が位置付けられている」

とする。しかしこれこそ、女はこう男はこうと決めつける女男差別(あえてこの順にした)ではないだろうか?いや科学が、社会がそういった思考に未だ無自覚・無批判に染まっているのだと主張するかもしれない。しかしながら文壇においても男性支配の状況はあるだろう。もちろん理系に限って論ずれば例えば女性は工学部の進学は少なく薬学部に多いなどは社会的な要因(女性に工学は向いていないなどという社会的なコンセントがある・あった)があるの確かだ。それでも女性が心を惑わす詩、男性が合理的な科学との見立ては簡単に同意できるものではない。またシャブロンカ氏の著作は未読であるが文化的な違い(西洋v.s.東洋など)を十分に考慮せず海外の知見を安易に日本に当てはめるのは危険ではなかろうか。
 次に

「実証史学の方法論による叙述には史料上の限界があり、史料に残りづらいマイノリティーであるほど「実証」 が困難」

とする。確かに叙述には史料上の限界がある。では「史料に残りづらいマイノリティ」とは具体的にいったい何を指すのだろうか?歴史上の名のある人物でなく市井の人、被支配階層に着目した研究はこれまでにも多くあるだろう。周縁化されるというならそれこそ旧態依然のものの見方でないか(後述するがジェンダー的な立場でなく社会進化学的立場からマイノリティの記述が偏見に満ちたものになる例はある、これはテッサ・モリス=スズキの著作によって教えられた)。さらに

「中世は現代との連続性が比較的希薄であること、 史料の数や種類が近世・近代に比べ限られていること、そして中世という時代自体が、女性が公的な場から締め出されていく過程」

と続く。古代はもっと連続性が希薄でうんと史料の数もない。どうして中世なのだ。さら「女性が公的な場から締め出されていく過程」とは具体的に何を指すのだろうか。中世以前は女性は公的な場から締め出されてなかったのだろうか。卑弥呼や女性天皇、「元始女性は太陽であった」とでもいうのだろうか。中世に拘りたいのであればもっと丁寧な議論が必要だろう。
 つまり、実証史学が男性的で、日本中世史研究者は視野が狭く弱者に目を向けない傾向があると断じるのは思考があまりにも拙速で短絡すぎやしないのか、結論ありきと思われても仕方がないように思う。

つづく。


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