目標達成


(1月末に書いた記事)

ハードな月だった。とても傷ついた日もあったけれど今後の人生に影響するまでものダメージではなかった。大人社会でのいじめみたいな構図を俯瞰して、心の底からしょうもないと思った。一体何をしに来てるのか。呆れたりした。捻れた正義感の結束力は目にしたくない。役に立ちたい人を喜ばせたい円滑に物事を進めたい基本みんな仲間、がわたしのベースにある。それに付随してくることもケースバイケースであるけれど、ベースはずっと変わらない。もちろん人それぞれ違う価値観で。この価値観を秘めているなんて見えないし、行動が全て=気持ちがないんでしょ、と本気で言われたら悲しかった。人の揚げ足ばかり取る人達ほどミスが多い。それをフォローしても言わないだけである。指摘していたらキリがない。もちろん言った方がいいこと、はちゃんと区別していた。人をいじめる人は、人として未熟で、その人自身の心に問題を抱えている、という言葉を思い出して気を鎮めたりしてやり過ごした。誰か他人がその構図で苦しんでいて、もしそれに気づいたとしたなら見て見ぬ振り等できない。だけどとても慎重になるだろうと思った。見てくれている人はちゃんと見てくれていた。工夫や姿勢を評価してくれていた事を知れてよかった。その構図が行き過ぎていることにも上の人たちは気づいていた事を最後に知った。ずっと自分のことを責めていたけど、今にブーメランになってその人達に返ってくるだろう、と聞いてほんの少し気持ちがすっきりした。

人の本音とか言葉に包んである奥の感情とかその人自身が気づいてないかもしれない奥の方やバックグラウンドまでも見えたりしてしまうから厄介。しつこく叱責された時なんかは悲しくなったり凹むけど、その人のバックグラウンド的なものを推測してしまう癖がある。腹が立った時は一度家に持って帰って自分が何故腹が立ったのか分析してその上で伝えたいことがあるのか?問いかける。人と関わる時に、吐いたら痛いポイントには触れない だとか(これはやってる)、気づいてないふりで上手いこと言えたり(上手いこと言える時なんて少ない)、笑えたりできたら世渡り上手になれる、のかもしれない。この見えすぎなセンサーを鈍らせると、周りをシャットアウトしてしまってロボット的に働くことになってしまう。これじゃあ人との距離感が遠くなりすぎる。かと言ってこのセンサーが稼働すると人との距離感が近くなってしまう時がある。上手いこと活かせなかった。萎縮すると特にそう。

社会的にこの素の自分では働けないよなあ、とずっと思ってきた。だからずっと探ってきた。わたしの素というかキャラクターを知る人は多分そんな多くはいないけど、キャラ作ってますか?と、問われてしまうような人間である。文章は根暗でユーモアがあるけど、多分人と関わった時の雰囲気的には(人見知りから打ち解けたなら)陽気とか面白いって感想になるんだと思う。キャラ作ってますか?なんて疑いの目をかけられることに対してあまりいい気持ちはしないんだけど、そこに親しい人がいたなら言うだろう。「こんな人です」って。笑 第三者が言えば説得力があるのである、そしてその場で笑いが起こる。ウケたこと・理解してくれる人がいること・理解してくれる人が増えたかもしれないこと、をわたしは密かに喜ぶだろう。 ゆうさんの一日に密着したら面白そう、と同じ意味合いのことを何人かの人に言われたことがあるのだけど、大して面白くはない気がする。面白いとしたら、人間のヘマする回数の平均を上回っているようなところ、くらいじゃないかと思う。



今月、ずっと諦めていた自分のやりたいことに挑戦した。そしてその目標を達成した。わたしにとって大きすぎる夢だった。それが叶った。誰かにとっては単なる通過点なのかもしれない。でもわたしにとっては大きすぎる1歩だ。沢山勉強した。人生で一番勉強したかもしれない。勉強なんて仕方が分からない、と最初の方は頭を抱えていてきつかった。要領も掴めないし落ちこぼれだと思ったりもう勉強できる気がしてなかったけど、日が経つごとに慣れていった。子供の頃の勉強と言ったらこんな風に現実的ではなかった。ただ知的好奇心的な部分で新しいことを学んだり理解することが楽しいと感じていた。それがわたし的に日常につながっていた事は科学や生物だった気がする。一番勉強するはずの年頃の頃のわたしは、勉強する余裕がなかった。何故か、成績がトップというイメージをもたれることが多かったけど、そんなに頭脳明晰ではないと思う。大人になって必死で勉強して本当に緊張して、やりたいことをやれていて、嬉しすぎて涙が出た。こんな日が来るなんて、って思った。これが現実なんて信じられないと思ったけど、ものすごく生き生きした。ライブのステージ以外でも生き生きすることがあるんだ、って思った。誰かにとっては当たり前のことを、とても喜ぶから、それについて、悲しい、と言われてしまって悲しくなった。わたしにとっては心底嬉しいのに、嬉しいと言ってはいけないみたいに感じた。そういうことは多々ある。その度に共に喜んでくれる人のありがたさを感じる。でも、本当は悲しい目をしていないか、対面したり声を聞かなければ分からないもので疑ってしまう。誰にも話さず嬉しさを噛み締めることもできるんだけど、嬉しいほど、話したくなったり報告したくなる性だ。

やっと大人の仲間入りができたような気がした。大人の階段を一気に上ったような。

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