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ヒロシのものがたり

ヒロシはわたしの父です。
漢字だと、「弘」です。

昭和20年3月生まれ、岩手県の沿岸部の出身です。
職業は左官でした。
僻地岩手、
ほんとにいわゆる僻地。ポツンポツンとしか家がない山あいの集落です。田んぼと畑と、山と言うか、森林ばっかりで、海にもスキーにも30分くらいで行けるところです。

そんな地域に左官の仕事なんてそうそうないので、
ヒロシは首都圏の建設現場で働く出稼ぎ労働者でした。わたしが、中学生のころまで、家族は岩手県に住んだまま、ヒロシだけが横浜に住んでいました。


なんで、人が少ない土地で左官なんかになったんだろう、不思議でたまりません。なんで、左官職人の親方は僻地で弟子を集め育てたのでしょうか。
手先が器用だったから、と母チエコや伯父ヒデオが言っていましたが、土壁を塗る和室がいずれ絶滅する、僻地ではなおのこと、なんて予測できなかったのですね。

話、反れます。
旦那は電気工事や通信工事に従事してますが、家を建てる時、1階から2階にネット用にリアルに太い何かのケーブルの配線工事をしていました。

2年後、光回線とWi-Fi接続で不要になってしまったのですが、この時も同じような感覚に襲われました。いずれ使わなくなると、何故わからなかったのだ?テメー専門ではないのか?

ケンカになるから言いません。

平成2年、ヒロシは45歳の時に新横浜の工事現場の4階から転落して脊髄損傷、下半身不随に。

そして、今年で79歳。

あ、今年の誕生日、すっかり忘れてました。
もうすぐ、父の日なので誕生日の分も奮発しようと思います。

労災保険受給者が入所できる介護施設が全国に数カ所ありますが、ヒロシは現在は宮城県の労災の施設で生活しています。

わたしが小学生だった、昭和の終わり頃、お父さんが出稼ぎで不在の家庭は珍しくありませんでした。クラスに必ず数人はいたように思います。

出稼ぎしないで地元で働いて生活していける家庭が不思議でたまりませんでした。
少なくとも、左官職人じゃダメらしい。
でも、どうして左官に弟子入りしたのだ?
親方は地元しかも近所にいるのに。

出稼ぎの父たちは、盆暮・ゴールデンウィークは帰ってくるのですが、多くの場合は土方作業員で、雇用形態が不安定。
そういう時期には働かない分、収入が激減します。
ヒロシが帰ってきてもあまり歓迎されていない空気が少なからず我が家にはありました。

ヒロシは帰ってくるたび、社用車を借りていました。
ヒロシが働いていた建設会社の社長は、同じ左官の親方についた兄弟子で、働いている人も同じ地元出身者ばかりでした。帰省のときは交代で運転してみんな一緒に帰ってきたのです。休暇中は車が我が家にあり、買い物や家族で車で出かけることができました。
当時母チエコには運転免許がなく、家に車はありませんでした。

ヒロシが帰ってくれば家族でドライブができる、とウキウキしていたのは、幼かったほんの数年間。

中学生にもなれば、親の勤める会社の名前が入った車、しかも普段は建設資機材を運搬しているハイエースで父親と出かけるなんて、そんなに楽しくもないわけで。山だの海だのもおもしろくもない。

自分の家が裕福でないことは知っているから、1時間かければ行ける映画館やショッピングセンターに行きたいとねだれもせず。

中学1年生になったばかりのゴールデンウィークの期間、家に帰ってきても娘がかまってくれないので、ヒロシは車で毎日パチンコへ通ったのでした。

連休最後の日の朝、ヒロシは、「はあ、帰って来ねえすけー」と捨て台詞を残して横浜へと向かいました。

その日の夜、ヒロシたちはちゃんと無事横浜に到着していましたが、その連絡の電話がありません。多分、それまでは毎回電話があったのでしょう。母チエコが朝「ゆうべ電話こなかった」と、静かに責めるように言ってきました。

チエコに言わせれば、ヒロシの出発間際の捨て台詞はわたしが悪いということで。
当時は素直にごめんなさい、と思ったけれど、今にして思えば、なんて大人気ない母親。お前が上手に取り持てよ、な話ではないかと思うのです。

翌日、母がヒロシの下宿先に電話して一応の無事は確認されました。

このゴールデンウィークの2ヶ月後です。
ヒロシが工事現場での転落事故でケガをしたのは。

ヒロシが横浜や東京で怪我の治療やリハビリを終えて岩手に帰ってきたのは、2年後のことでした。


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