シェアすること=『Happiness』だなんて考えたこと無かった。
シェア(共有)することは『思いをお裾分けし合うこと』
きっと昔から聡い私は
『思いとは愛で、愛を渡したい人にお裾分けすることがシェアである』と感じていた部分があるが、
私の中では思いと感情はかなり掛け離れた場所にあった。
正直、この言葉を出すことを泣いて抵抗する私も存在している。
シェアすることで、伝えることで、知ってもらうことで、
『どうせ伝わらない。きっと叶わない、また泣いて後悔する』
つらい思いをして、悔しい思いをして、挫けて、諦め癖ばかりが培われて、
八方塞がりになった末に、だれかに「たすけて」の4文字すら言えなくなった私が泣いて抵抗して訴えてくれている。
シェアってそんな綺麗ごとじゃない。
そうであるなら、これまでの私のつらさは何なんだ。
「たしかにそうだね。そうだったね。ずっとごめんね。」
これまでこんな言葉すら言ってもらえない環境で寂しい思いさせたよね。
幸せも愛も微塵も感じれなかったエピソードの多さに圧されて、
『自分で自分のことを愛する大切さ』なんて知らないし、教わってもいないし、
知った今でもどうしても受け入れられない私がまた泣いている。
ずっと心細い思いをさせていたことを、
ずっと心を蔑ろにして来てしまったことをこの投稿を書きながら思い知った。
けれど今、『シェア』をすることを優しく見守って、受け取ってくれる環境に身を置いて不思議な感覚を味わっている。
「シェアしてくれてありがとう」
「言ってくれてありがとう」
「教えてもらえて良かった」
「知れて嬉しかった」
頭が混乱する。
これまで言われて生きてこなかった言葉を浴びて安心している私がいる。
けれど、何がありがとうなの?何が良かったの?どうして知れて嬉しいの?
同時にそう感じている私もいる。
こんなにも人として当たり前かもしれない感覚を知らなかったのか。
本当に素直に受け取れないまま育ってしまっていたのか。そう自分を育ててしまっていたのか。
これから少しずつでもシェアする=Happiness のヒントがあるのだろうか?
けれどきっと分かるようになれば自己愛のヒントにもなるのだろう。
本来なら知っている、気付いている、ずっと抱え持っている、
絶対に手放したりなんてしていない自己愛の自分
そんな自分に出会える日が、シェアを続けた先にいると嬉しい。
感情と理解と自分が重なり合い、共存し続けてくれるならきっと嬉しいと思う。
そうなれたら私は人間としての感覚を少しずつ取り戻せるような気がする。
そのための葛藤の開示をまた再開しようと思う。
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