信仰とサッカー

こんばんは。
久しぶりに記事を書きます。

最近、Yahooでこのような記事を見つけました。(というか、教会に通う知り合いが教えてくれたんですけど。)

https://news.yahoo.co.jp/articles/83727ed74fe95e6b367f448183b5f58201533d57?page=1


海外のサッカー選手と「神」への信仰について書かれている記事です。
内容としては、神様を信仰する外国人選手たちと、特定の宗教を持たない人がほとんどである日本人との根本的な違いについてでした。

日本人のサッカーでは、シュートやパスでミスをしたら、「ごめん」とか「わりぃ」といった言葉が頻繁に飛び交いますが、海外ではそうではありません。
シュートを外した場合、まず彼らは神様と対話するというのです。手で十字を切ったり、空を見上げるなどして、まずは自分と神様の間で自己評価をするのです。だから、その場の空気に左右されず、「自分が試合を決めてやる」という決意が揺らがないので、彼らのプレーは実に堂々としています。それ故に、彼らはミスをしてもチームメイトに謝ることはしません。
日本人にとって、ミスをした自分を裁くのは「場」であって、その「場」は状況によっていくらでも変化します。だから日本人はその場の空気を敏感に感じ取り、自分が試合の中で何をすべきかという決意は、その場の空気によって変わってきます。それに対して、信仰を持つ外国人選手にとっては、ミスした自分を裁くのはただ神様しかいないのです。だから、「自分のミスを他の人にとやかく言われる筋合いはない」と考えるため、ミスをしても謝らないのです。シュートを外したとしても、また「次こそは決める」という強い決意のもと、心が折れることなくプレーを続けられます。
日本人選手が海外でうまくやっていくには、この宗教や信仰に対する理解が必要になってきます。自分が信仰を持たないまでも、相手の信仰に対して興味や理解を持つだけでも、日本人選手の海外での可能性は広がるのではないかということです。

ここまでは、この記事の内容をまとめたものです。(まとめと言っても、かなり長くなってしまいましたが…)

この記事を読んで私は、このキリスト教福音宣教会のサッカーのことを考えました。(略して教会サッカーと書きます)

私自身は、聖書の御言葉を学んで教会に通い出した頃から、教会サッカーに参加してきました。私はサッカー経験者ではなく、最初はボールも上手く扱えないし、どう動いたらいいのかも分からない状態でした。御言葉をたくさん学んで、どんどん信仰を持つようになってきても、なかなかサッカーの腕前は上達しませんでした。そのくせ私は負けず嫌いでしたから、試合に負けたり自分がミスしたりすると、内心かなり悔しくて腹が立ったりもしました。

そんな中、同じ教会にいたある先輩(サッカーかなり上手い人)が私に言いました。

「確かに勝ち負けも大事だけど、それよりも大事なのは、このサッカーを通じて何を得るかだ。上手くできなくても、自分自身を成長させてくれるヒントでも得られれば、それが成功したことだ。たとえ試合に勝っても、何も得るものがなければ、それは本当の成功とは言えない。だから、試合中でも神様と対話するんだ。このサッカーを通じて、神様が君に何を伝えたいのか、何を悟らせたいのか、それを掴むことが大事だよ。」

それを聞いて私ははっとしました。
今までそんな気持ちでスポーツをしたことなかったなと。
何をするにしても神様と対話する。
それを実践するのがまさにスポーツの場なんだと気づき、自分の認識が変わりました。

牧師先生も、40代になってからサッカーを始められましたが、60代、70代になっても素晴らしいシュートを決めます。牧師先生のプレーを初めて見た人がみんな、先生は昔プロサッカー選手だったのかと思うほどです。
私は、牧師先生ほど神様と対話しながらサッカーする人を知りません。今シュートを打つべきか、パスを出すべきか、牧師先生は全て神様に聞きながらやるのです。その結果、プロ顔負けのスーパーゴールを決めることも多いです。

このように、信仰を持つことがサッカーに与える影響は非常に大きいし、私たちの価値観、考え、そして人生にも大きな影響を与えます。
「だから私たちも信仰を持たなければならないのです!」みたいなことは言いませんが、信仰を持つことへの理解を深めるだけでも、もっと自分の価値観は広がるのではないかとは思います。

スポーツを見る時、その選手の信仰にも目を向けてみても面白いのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?