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【創造性の開花を目指して②】サバイバル脳が創造性を妨げる

「創造性の開花を目指して」という表題で思いついたことを連続で記事にしていきたい。今回は第2回目の記事だ。第1回目の記事をご理解いただいていることが前提になるので是非目を通していただきたい。

さて、第1回目の記事で述べた流動的視点が可能とする豊かな創造性、これは誰の中にもあるものでありながら、実際には社会でほとんど活用されていない。では何が創造性の発揮を妨げるのだろうか?何が流動的視点を妨げるのだろうか?今回はそれを記事にしたい。結論を先に述べると、答えは”自我の機能”と”自我を肥大化させる社会”の相互作用が人間の創造性発揮を妨げる要因だと思っている。これをサバイバル脳が創造性を妨げるという表現で表したい。

まずは復習のために第1回の記事で指摘した人間が優れた”直観”を駆使して豊かな創発を行うことができる原理を再掲する。

人間の創発の原理(おさらい)

1.優れた”直観”は、単なる思いつきのランダムな創発ではない。

2.優れた”直観”は、身体ー環境が織りなす相互作用の場から立ち上る知覚に注意を払うため、”いま生じている”場から広範に、さらには緻密な情報(無意識下の身体感覚含め)にアクセスし、判断の材料にしている。


3.優れた”直観”はさらに、”いま生じている”場のみならず、身体に刻印された過去の全経験の場に無意識下の身体感覚含めてアクセスし、判断の材料にしている。

4.我々が通常運用している思考は、日常をスムーズに過ごしていくための固定観念としての”言葉”に基づいて行われる。ゆえに思考は常に、ある程度は狭隘な固定観念にならざるを得ない。しかし、優れた”直観”は固定観念に縛られずに全経験のデータベースにアクセスすることができる。

5.上記の理由によって”直観”は、参照する情報量において”思考”のそれを圧倒的に上回る。だから、常に優れた洞察たりえる

人間の創造性の発揮を妨げるとは、上記5つの原理が成立しない条件を自己ー環境との相互作用内に埋め込むことだと考えればよいだろう。そのような観点で、人間の創発を徹底して疎外する方法を以下で考えてみる。上述したサバイバル脳を刺激することで、人間の創発する力は抑制される。

人間の創発を徹底して疎外する方法

1.積極的に身体ー環境が織りなす相互作用の場から立ち上る知覚に注意を払う機会を失わせること。例えば、自分の興味関心(興味関心は立ち上る知覚である)が刺激される事柄から遠ざけ、義務感を惹起するようなプログラムをこなすよう強制すること(義務感は、知覚から立ち上る拒否感を無視し、黙々と作業をこなすクセづけをする)。機械的な繰り返し作業など、感覚をマヒさせて取り組まざるを得ないプログラムは特に効果的である。特に幼いころからの受験勉強などは格好のプログラムではないだろうか。

2.優れた”直観”など存在しないと教えること。あるいは気づかせないこと。例えば人間は機械のような存在であり、その頭脳の中に大量の知識を詰め込み、それら知識を運用する処理能力を身につければいつしか優秀と看做され、社会的地位向上を果たすことができるという信念を、特に批判性の低い子ども時代に熱心に教え込むこと。※実際には、アカデミック、芸術、ビジネスでクリエイティブな仕事をしている人はいずれも意図せず優れた”直観”を運用しているので、上記に挙げた価値観で教育を受けた人がこれからの時代に有能であるケースは極めて稀だろう。

3.できるだけ慣習的な固定観念を確信させること。特に重要なことは”他者と比較しての優劣で人間の価値は決まる”という確信を持たせること。例えば学力テストで高い偏差値を獲得することを強要し、偏差値の上下に対象者と共に一喜一憂し、承認を与えたり、罵声を浴びせたりなどを繰り返し、スコア化された指標に対する感応度を高めるように仕向けること。結果的に高学歴を獲得すれば他者を見下すように、高学歴獲得に失敗した場合には劣等感に苛まれるような価値観形成を促す。これが、自分と他者を分離する強力な固定観念になる。

4.できるたけ自己否定の観念を植え付けること。自己否定は自分に足りないものを埋め合わせるべく人間を思考に駆り立てる。そのため、知覚に丁寧に耳をすませることを妨害できる。「お前になど何の価値もない!」、「どうしてこんなこともできない!マヌケ!」と事あるごとに矢継ぎ早に叱責し、対象者を混乱させる。そうすると対象者は身体の知覚に耳をすませる余裕もなく、周囲の承認を得て一刻も早く自己防衛を成功させるために慣習的思考に全集中するクセがつく。

5.できるだけ物事を短絡的に決めつけること。「~でなければならない」「~なヤツはダメだ」などという否定的な価値観を固定観念として刷り込んでいくこと。そうすれば身体ー環境を常に切り離して思考するようになる。環境は愚鈍で、敵対的なものと看做すからだ。「あんな家庭の人間はロクなやつではない。付き合わない方が得策だ」という物言いなど、環境に対するネガティブな評価を刷り込んで、環境との接続を断ち切らせる発言は効果的である。

ちょっと極端な描写をしてしまったが、人間の創発を徹底して疎外する方法としては例えば以上のようなアプローチがありえるだろう。要は、人間が「身体ー環境が織りなす相互作用の場から立ち上る知覚に注意を払う」ことを阻止すること、これが創発を疎外する方法になるのだ。そして、一連に述べたアプローチは全て、”自我の機能”と”自我を肥大化させる社会”の相互作用と言える。解剖学者の養老孟司は上記のような現代の世相を指して言語表現が肥大化して身体表現が縮小した時代と述べた。

自我の機能とは、多くは健全な自己愛の機能だったりもするが、「生き残りたい」といった自己防衛的な反応や、「他者よりも優越的地位について優越感に浸りたい」という克己心・虚栄心や、「他者よりも物質的にどこまでも豊かになって安心感を得たい」という飢餓感など、自己と他者を分離して他者からスポイル(搾取)することを望む機能が含まれている。このような心持ちを私はサバイバル脳と呼ぶが、サバイバル脳は”身体ー環境が本来は分離できない一体のものだ”というつながりの感覚を失わせる。そのため、「身体ー環境が織りなす相互作用の場から立ち上る知覚に注意を払う」ことがしにくくなってくるのだ。

企業社会は総じて人間のサバイバル脳を活性化し、再現性と効率性を追求する

ところで、「生き残りたい」といった自己防衛的な反応、「他者よりも優越的地位について優越感に浸りたい」という克己心・虚栄心、「他者よりも物質的にどこまでも豊かになって安心感を得たい」という飢餓感、こういった考え方を総称してのサバイバル脳を自分自身が持ったり、他者の中に感じたりすることはあるだろうか?実はそこら中に見かけることができる考え方ではないだろうか。

私は、我々が暮らしている現代社会はこのように、自我の生存欲求を駆り立て、肥大化させる社会と言えるような傾向性があると思っている。私が考える創造性の開花に向けてはネガティブな影響がある言説・価値観が主流を占め、なおかつ美徳ともされている風潮があるように思う。そして、このような価値観を賛美する傾向は、資本主義社会と呼ばれる社会システムに特有のものだと感じる。企業組織にもこのような傾向は顕著に見受けらる。

具体事例として、楽天の経営理念ー成功のコンセプトを引用してみよう。

常に改善、常に前進
人間には2つのタイプしかいない。
【GET THINGS DONE】
様々な手段をこらして何が何でも物事を達成する人間。
【BEST EFFORT BASIS】
現状に満足し、ここまでやったからと自分自身に言い訳する人間。
一人一人が物事を達成する強い意思をもつことが重要。

Professionalismの徹底
楽天グループはプロ意識を持ったビジネス集団である。
勝つために人の100倍考え自己管理の下に成長していこうとする姿勢が必要。

仮説→実行→検証→仕組化
仕事を進める上では具体的なアクション・プランを立てることが大切。

顧客満足の最大化
楽天グループはあくまでも「サービス会社」である。
傲慢にならず、常に誇りを持って「顧客満足を高める」ことを念頭に置く。

スピード!!スピード!!スピード!!
重要なのは他社が1年かかることを1ヶ月でやり遂げるスピード。
勝負はこの2~3年で分かれる。

太字にした要素は、人を強烈な思考の運動(サバイバル脳の発動)に駆り立てるものだ。常に勝ち残るために考え抜いて、自己管理してやり抜くことを社員に求めるというメッセージが含まれている。結果的に、「積極的に身体ー環境が織りなす相互作用の場から立ち上る知覚に注意を払う機会を失わせること。」という人間の創発を疎外する方法の第1の条件を満たす規範になっている。

このような規範は、仕事の再現性効率性を徹底追及する思考優位の事業においては高度に機能するように思われる。しかし、人間の創発を促す機能を弱体化させる。というより、人間に元々内在する創造性を抑圧する機能さえ、この規範には含まれているように思われる。

精神分析家のアリス・ミラーは、いまの社会システムで”エリート”と称される方々(それは政治・行政、企業経営などでリーダーシップを発揮している方々のことを指す)は、勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念によってこそ、結果的に社会的上昇を果たしていると主張する。サバイバル脳の発動は、強迫観念をベースにする必要があるのだ。ちょっとお高めだが、ご関心のある方は書籍に当たってみていただければと思う。

私は、そうした方々が社会的上昇を果たすことでさらに、「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」は(主に物質的な)成功のためのモデルとしてより一層称揚され、再生産される傾向があると考えている。そうして、人間の創発を疎外する仕組みはより一層盤石になっているように思えるのだ。

資本主義社会は人間のサバイバル脳を刺激し続け、もって生産量を増大し続ける再生産システムである(むろん、創造性を抑圧する)

個人の生存欲求を駆り立て、強迫観念を刺激し、再現性と効率性を追求させ続ける仕組みは、個別に例示した楽天グループだけに看られるものではない。「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」は、我々の生活の隅々に行き渡っている。

受験システムから始まって、競争社会と言われる、我々を思考に駆り立てる要素は、社会の隅々に行き渡っているではないか。そう、我々の社会は自我(の強迫観念)を肥大化させる社会だと言って良いのだろうと私は思う。そのような社会は当然、人間の創造性をマヒさせてしまう。

我々の社会はいつからこのようなシステムに移行していったのか。経済学の観点から東京大学東洋文化研究所の安冨歩教授がとても示唆に富んだ指摘をされている。ご興味がある方は下記動画をご覧いただきたいが、私の考えをも織り交ぜた要旨は以下の通りだ。

アダム・スミスが「諸国民の富(国富論)」において分業が社会の生産量と効率を圧倒的に高め、国を豊かにすると喝破した産業革命の進展を受け、人間は自分自身の生産手段(田畑や物を作るための材料)を手放し、都市労働者として資本家によって経営される事業において分業に従事するようになった。

社会の隅々で分業が進むと、販売という問題が出てきた。というのも、個々人が生産手段を持っていた頃は、自分で生産したものを消費したり、あるいは地域社会内の周囲の人に販売したり、交換したりして自分が生きていく糧を得られていたのに、分業が進んでしまえばそれを労働者個人が実施することができないからだ。

労働者は販売という交換行為に個人としては参画できなくなるため、資本家が有する生産手段に依存せざるを得なくなってしまった。そうなると、資本家の元で生活の糧を得るために、一層勤勉に労働に励む必要性が出てきたのである。これが、労働者に「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」を芽生えさせる契機になった。

資本家は資本家で、販売という問題を巡って、資本家間の熾烈な競争を余儀なくされるようになった。生産物の販売を巡る市場は、景気変動も相まって資本家間の優勝劣敗を決していく。経営に行き詰った資本家は、持っている生産手段をより有力な資本家に譲り渡し、自分は廃業に追い込まれるという流れが生まれた。これが、資本家に「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」を芽生えさせる契機になった。

上記の構図において、労働者は資本家に依存せざるを得ないがために、さらに盤石なる依存を目指して業績を上げようとする流れが生まれ、資本家は熾烈な競争に打ち勝って、さらなる資本の増大を目指し、業績を上げようとする流れが生まれた。この2つの流れがさらなる資本家間の合従連衡⇒大資本の創出と、大資本に対する労働者の否応なき依存という構図をどんどん再生産していった。これがいわゆる所得格差を拡大せしめる基本構図である。

一連のことはマルクスが資本論で語った資本主義社会の再生産システムだ。資本主義社会は、資本家と労働者の両方において「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」を生み出すというプロトコルが実装されていたと、マルクスは考えていた。このようなプロトコルが存在するということは、格差社会と言われて久しい社会に住まわれている皆さんも納得できることだろう。

「何が人間の創造を妨げるのか?」という問いで進めてきたこの記事だが、端的に言えば我々の社会が人間の創造性を妨げているとも言えるのだ。残念なことではあるが、私はそう思う。

サバイバル脳はどの視点(何人称の視点)と関連しているか?

少しわき道に逸れるが、サバイバル脳はどの視点(何人称の視点)と関連しているかについて述べておきたい。結論から述べると、サバイバル脳は1~4人称の視点と関連している。

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サバイバル脳とは関連しない視点、すなわち本能的視点(0人称)と社会的視点(5人称)について先に述べておこう。

本能的視点(0人称)は、自分の内なる衝動に任せて振る舞う子どもの視点だ。そこには自分と他者の区別はない。ただ好奇心に基づき生きる。区別のないところに比較も競争もないのだから、「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」は出てきようがない。

社会的視点(5人称)は、社会における慣習的な枠組み(ex.市場価値・時価総額)を越えて、自分の原体験とつながった何らかの社会的理想を掲げ、それを人生の目的として歩む視点だ。「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」、それを増幅させる社会システムを変革対象に据えるのだから、社会的視点(5人称)そのものには「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」は出てきようがない。

上記に対し、サバイバル脳と強く関連する視点の特徴を挙げると以下の通りだ。自己中心視点(1人称)は自分の衝動を他者の事情に優先して満たす。自分の利益のために他者を利用する視点だ。これはもうサバイバル脳そのものと言えるだろう。他者中心視点(2人称)は、特定の他者に従わなくては生きていけないという強迫観念に基づいて忍従することがある。自他最適視点(3人称)は、自他の関係を穏当に、適切に維持できなければ出世に支障を来たすので、穏便に、時に妥協しながらコンセンサスを取るというややたくみなサバイバル脳の運用として現れる。合目的的視点(4人称)は、与えられた枠組み(ビジネスゲーム)において戦略的思考を巡らし、合理的で打算的な問題解決を図り、競争相手を圧倒しようとする視点だ。これも巧みなサバイバル脳の運用と言えるだろう。資本主義社会とは、人間の視点を1~4人称に集中させることによって活力を得ているシステムとも言えるだろう。

最後に

私はこの記事で、「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」が、人間の創造性を妨げると主張してきた。また、そのような強迫観念を我々が住まう社会自体が刺激し、様々な格差を生み出しているということも主張してきた。

私もこのような社会(資本主義社会)で生きている人間の一人だ。だから、私自身このような強迫観念から完全に自由になることは不可能だし、この仕組みに適応する手段は常に持っていなくてはとも思う。

だが、これって生きづらくない? 

と思う。マルクスが指摘した再生産システムは、資本家も労働者も「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」に晒され、一喜一憂する緊張感みなぎるゲームを生きているだ。

本質的には誰も悪くない。というか厳密には、資本家も労働者も、このように我々自身を強迫観念に絡め取るシステムの強化に励んでいる共犯関係にある。これは”勝ち残り”という固定観念にフォーカスさせようとする大いなる欺瞞だ。そして何よりも、我々の中に内在する豊かな創造性を減退させるという意味で、人間を生きる歓喜から遠ざけもする。創造性を発揮することは人間の生きる喜びそのものなのだ。

我々の社会は世界的な分業を推し進め、生産性が極限まで発達した大資本による生産システムを生み出し、AIやIoTなど、労働者の定型的な勤労に依拠せずに製品を生み出すテクノロジーを手にするに至った。そして、様々な領域で、人間の生きがいの増進が重要な価値として訴えられるようにもなってきている。また何よりも、私が主張している人間の創造性の開花は、これからの社会の発展には不可欠なものだとも思っている。

いまこそ、様々な領域で、我々を「勝たなくてはならない、優秀さを示さなければならないという常なる強迫観念」の行き過ぎを意識し、そうではない形で新しい価値の創発を促していく仕組みを考える時なのだろうと考えている。続く記事では、そのような人間の創発を促す社会システムについて述べて行きたい。

(補遺)

今回の記事でサバイバル脳によって人間の創造性が阻害される流れを説明してきた。ところで、我々を「勝たなければ生きていけない。優秀でないと生きていけない」という固定観念に絡め取るサバイバル脳だが、それを自分で脱出する方法はある。この著作に書いてある内容はとても効果的なので是非試していただきたい。


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