見出し画像

ツバメの開拓者魂

DNAに組み込まれているのか、長年の経験から受け継がれてきたのか、今年もまた、ツバメが戻ってきた、この古びた農家の一軒家の軒先に。まるで歓迎されるのを確信しているかのように、まるでオリンピックで金メダルを取れなかった悔しさを、故郷の同胞と一緒に分かち合いたいとでもいうように。まるで海外での心臓移植手術のための費用を、クラウドファンディングで寄付してくれたドナーに感謝を伝えに舞い戻ってきたかのように。

 
まだツバメのイメージが、害虫だけを食べて、農作物をまもってくれる「益鳥」でもなく、農耕の実益も兼ねて、ツバメが巣を作る家には幸せが訪れるというような縁起をまだ誰も担いでいなかった昔、その無名の鳥は、種の保存をかけて、農耕民族の住む人間世界に飛び込んだ。イチかバチかの賭けだったろう。天敵であるカラスや蛇のそばか、人間のそばか、その中間はあり得ない。動物の天敵にはない、人間の情けに賭けるか、動物にはない残酷さを持った人間の本性の前に退散するか、種の保存のためにどちらを選べばいいのか、祖先のツバメは悩んだに違いない。
 
人間世界での経験では先輩である、ゴキブリにも話を聞きに行っただろう。「俺たちは、夜しか動き回らないようにしているけど、それでも姿を見られたら終わり、一瞬で神経を麻痺させられるスプレイ攻撃、スリッパでの打擲攻撃、それでも命からがら隙間にはいり込む。始末できなかった悔しさの表情がいつも目に浮かぶ。確かに俺たちは数の力で人間をおびやかしているところがある。俺の後ろに何匹仲間が控えているか、それを想像させて、不安がらせるから不気味なんだろう。何匹殺されようが、必ず生き延びる奴がいるという不死身のイメージが、俺たちに対して情け容赦なくなるのだろし、殺してもいいという理由を正当化していると俺は思う。」
 
人間世界での昼の経験豊かな、野良ネコにも相談しただろう。「ゴキブリさんと違って、野良猫のイメージは、人それぞれなのが、救いだね。ストレスのある人間に癒しの役割を演じる奴もいるし、そんな役割を演じるのは嫌だという奴も、それなりに受け入れてくれる懐の深さがあるね。猫かわいがりされるのを、俺たちは一番嫌がるんだ。ヒゲのセンサーが警戒を知らせるのは、そういうときだ。いつでも一人で生きていけるように準備しておけってね。その人間のそばがいつも安全とは限らないからな。まあ人間といっても、相手次第だな。選ぶ相手を間違わないよう、日ごろの観察力を磨いていくのが肝心。」
 
いろいろ話を聞いた結果、祖先のツバメが出した決断は、「身の程をわきまえない」セールスマンに徹して、自分のイメージを売る。それもさりげなく人間の心の隙間に入り込みながら。セールスの途中で、万が一命を取られても仕方がないという覚悟で。つまりは、他の天敵の動物にはない、人間の情けに、種の保存を賭けるということだ。
 
初めて人間の気配の届く距離で巣を作る。泥を捏ね上げて、固めるための唾液が、極度の緊張のためか出にくい。選んだのは、田んぼのそばの農家の一軒家の軒下。もちろん、何度も下見をしてから、そこに決めた。場所の条件だけでなく、そこに住む農家の家族の構成員の人柄も一通り観察してから。
 
その農家の家族にしてみれば、歓迎すべきかどうかもまだわからない未知の鳥、とりあえず様子を見るかという感じで、巣作りを横目で見ながら、田植え作業に精を出している。巣作り、子作りで軒先を飛び回っても、彼らには、もう日常の一コマになったのか、嫌がられている気配はない。

ただ冒険には犠牲がつきものだ。だがそれが吉と出る場合もある。種の保存のためには、その農家のやんちゃ坊主の好奇心に命を犠牲にしなければならない覚悟も必要だ。4つ生んだ卵のうち、1つがやんちゃ坊主の手に渡り、母親に見つかるまでその手で温められた。幸いその卵は、外から割られることなく、また元の巣に戻された。やんちゃ坊主の心に芽生えた好奇心の芽は、膨らんでいった。それ以来、やんちゃ坊主は我々の味方になった。
 
子育てが一番心配だったが、それも何とか乗り切れそうだ。やんちゃ坊主にも感謝しなければならない。卵が内側から破られて、どうなっていくのかを身近で、余すところなく公開したことで、やんちゃ坊主は我々に夢中になった。ひな鳥が成長するにつれて、体外に吐き出される代謝物も増え、それは自然と巣の外に落とされる。その糞の山に苦情をためた表情の母親も、息子の観察の熱心さに文句が言えなかった。

一番苦労したのは、ひな鳥の餌の確保だ。餌を見つける場所を限定した。この農家が耕している田んぼの中か、その周りだけと自ら腹を括ったからだ。少し範囲を広げれば、簡単に餌はみつかる。だがそれではダメだと本能がささやく。我々の存在価値をこの限定された時間、場所でできるだけ濃くしないと、我々に未来はないと。

軒先を借りた分の宿代は、きちんと返さなくてはならないが、果たしてそんなことができるのか? 我々の子供の成長に必要なものを田んぼからついばむことで、稲の実りにどんな影響を与えられるのかとか、そんな難しいことはわからないが、無我夢中で飛び回っている自分たちの姿が田園風景の一部として溶け込み出したのはまちがいないだろう。

実りの秋の収穫時にはここにはいないが、春から初夏にかけての田園風景の名残りが家族の心象風景にいつまでとどまっているか、またどのようにとどまっているか?ゴキブリのイメージと似たものとしてか、野良猫や野良犬のイメージにちかいものとしてか?それとも全く別のものとしてか? それは考えても意味がない。まして「なんていう名前かわからなかったけど、あの鳥の巣を壊さなくてよかったな。」と言ってもらえるかなど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?