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リヨン、我が愛しのリヨン(フランス生活振り返り)

帰国しております

7月末、2年弱のフランスでの生活を終え、日本に帰って参りました。自宅マンションを残して出たのと、それなりに周到に、渡航前・渡航中も自分の仕事と子どもの教育の予定を立ててこの期間を迎えていたということもあり、帰国して1週間ほどで基本的な生活の立ち上げは終わり、9月から本格的に始まる新生活の準備に入っています。

とはいえドバイにおける深夜トランジット、計16時間ほどのフライトを経て関空に着いたその足で、自宅に帰らずに京都に行き、とあるお祝いパーティーに参加しまして、大変楽しかったですがすごくタフなスケジュールでした。たださすが?私の子どもたち、体調も崩さずここまで参りました。次女は既に以前通っていた園に復帰しています。

既に懐かしいリヨン

帰国したら帰国したで元気に過ごしている子どもたちですが、本当にフランス生活が大好きで、帰る直前まで「本当に帰るのかー!」「信じられない!」と長女は叫んでいましたし、日本でのこれからの生活の話を次女にすると"Don't say that!!"などと怒りだしていました(が、まあ、ふたりとも日本にも今のところ馴染んでいます)。

自分自身のことに立ち戻ると、職業人としては、社会人になってから最長の休職期間を取って行ったリヨン。異国で家族全員の健康で穏やかな日常生活を維持するのに加えて、語学と研究を(不十分ながらも)進めようと生きていって、何とか最低限は達成できました(これは別に書ければと思います)。自己としてこれまでの人生で抱いた経験がないほどの寄る辺なさ(これも別途もう少し掘り下げて書ければと思います)を抱きつつも、4人家族で本当に密接に暮らすことができました。
特に近日中に14歳になる長女は、この海外経験を踏まえてどのように進学し、どのように生きていきたいかを改めて自分の頭で考えていたように思います。話し相手としてその試行錯誤を見てきた中で、もし彼女が物理的には身近にいる状況が続くのだとしても、長女自身が自分自身で彷徨と内容を決めて進んでいく時期は目の前に迫っています(親にできるのは金銭的な支援と心身の健全さを保つためのアドバイスくらいです)。その時期の前に、家族での時間を取れたのは幸せなことでした。

フルヴィエールの丘からリヨン市街を望む

リヨンのおもひで

歴史と観光と日常

この2年弱、苦労して見つけた住居が旧市街寄りにあったので、買い物や少し足を伸ばしての散歩をすると、日々観光しているような日々でした。

la Cathédrale Saint-Jean Baptisteの裏手から(娘の公園遊びのときに撮った)
これはla Cathédrale Saint-Jean Baptisteの前の広場からBasilica of Notre Dame of Fourvièreを見上げたもの
対岸からVieux Lyonを見る

リヨン旧市街は世界遺産登録の関係もあって街並みを大きく変えることが不可能であり(生活の際の決まり(https://www.lyon.fr/sites/lyonfr/files/content/documents/2020-12/charte_vieux_lyon.pdf)、リノベーション工事等をする際の規制等あります)、景観が保たれていますが、一方で生活の地でもあります。我々は日々、石畳の街を抜けて通勤通学し、幼稚園にお迎えに行き、スーパーやマルシェに買い物に行きました。

観光地であるが故に、週末の夜間などには騒がしい声も届きましたが、その分、夜に行われる「光の祭典」なども子連れでも気軽にちょっとだけ見に行くことができ、いい思い出になったと思います。

2021年の光の祭典、Place des Terreaux

リヨンの季節の移ろいと過ごしやすさと

ヨーロッパの夏の夜の訪れは遅く、私たちが渡航した時期である8月末でも驚くほど夕方が明るく、街角にはひとがあふれていました。慣れてきた帰国前には我々も、その明るさを享受しつつテラスでビールを飲んだり食事を取ったりしてきました。

ビール1パイントが懐かしい

一方、一般的な建物には構造上エアコンがつけられないのに、この2年、特に2021年は酷暑(caniculeという単語を身体の底から覚えました)に襲われ、長いバカンス期間と旅行を挟み人間としての活動強度を夏の期間は一定程度下げることで何とかしのいだ面があります。
また、冬は日の出も遅く、我が家における午前8時(遅め)の登園登校時刻でも真っ暗で、しかも石造りの密閉された建物内の湿気がひどくてカビに悩まされるということで、記憶が美化されやすい帰国直後のいま思っても、冬だから!という理由でのいい思い出はそこまでないような気がします。

冬来たりなば春遠からじ

厳しい寒さを経て春が来たリヨンはとても過ごしやすい場所で、花盛りには買い物ついでに咲き誇る花々を何度も眺めに行きました。

Célestins, Théâtre de Lyon前の満開の木蓮
もしここがどこか知りたい方は個別にお知らせください

ミモザの時期にはミモザ屋さんが出て、マルシェの果物も春らしくなって、私は春のリヨンの景色を浮き立つ気持ちとともに思い出します。

年に2週間くらいしか立たないミモザ屋さん
このお店はちょっとだけ高いけど野菜と果物の質が良かった

Étrangèreとしての愛

楽しかった「区切られた」時間

過去に繰り返し書いてきましたが、今回、私は私本人の事情ではなく、配偶者の事情で渡仏し、これまでにない長さで仕事から離れました。無論、この期間が来るのはそれこそ10年以上前から想定はされており、できうる限りですが心構えと準備をし、「2年」と定めて過ごしたリヨン生活は、終わりを迎えた哀惜の念のブーストがかかっているのを踏まえたとしても、とても楽しく有意義なものでした。配偶者が生き生きと研究をしていたので、私も可能な範囲ですが研究に打ち込む意欲をつなぐことができました。他方、ひとりで考え続けていたので多分直接的には仕事にも博論にも繋がらないかもしれません(少なくとも博論にはつなげない方がうまく進みそう、と先日相談しながら思った)。でも、考えるのも書くのも学会に出るのも、とても楽しかったです。
とはいえ前述の「寄る辺なさ」は、フランス語が話せないことに起因するものではなく、2年で元の環境に戻ると分かっているが故に広げることをやめた世界や人間関係から来るのだと認識してもいました(できる範囲で交友関係も広げましたし公私にわたって取り組みましたが、おそらく普段の私のバイタリティを鑑みると小さくまとまっていたと思います)。

この2年の楽しさは、例えるならば箱庭の美しさ、よそものであり続けるが故の気軽さでありました。手の中に美しいリヨンの景色のイメージを携えて、私は粛々と還って参りました。

いつかどこかへ飛び立つ

箱庭の中での2年間で、今後海外に積極的に住みたいわけではなくとも、「やれるな」「悪くないな」という感覚を身につけられました。ひとはそれぞれ各地各国で生きていて、いいところ悪いところを踏まえながら、何とかして生活していけるのだと知りました(少なくとも一定程度インフラが整って日本食が買える状況の場所であれば)。ただ一般的に考えると、まだ教育のさなかにある子どもたちへの在外生活の影響の方が大きいでしょうし、実際、彼女たちの変化と適応能力は素晴らしいもので、親として本当に誇りに思っています。海外に今後行くのは当然の選択肢で、もしかすると日本にとどまるかもしれない、くらいの転回があったと感じます。
いつか、心も体も成長して巣立つときに、歴史に満ちた建造物、青くて高い欧州の空、言葉が分からなくて苦しみつつ切り開いた世界、そんなリヨンでのあれこれが子どもたちを支えてくれるでしょうし、多分今後の私のことも、支えてくれそうに思われます。できれば仕事上で頑張って、リヨンに縁があるようなことをしてみたいなとも企図しています。

リヨン、我が愛しのリヨン、いつかまた。

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