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(14)赤い風車の巡業/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
札幌初のレヴュー団「赤い風車」に加入した益田喜頓。そしてその公演を観た芝利英も、研究生に応募する。

【芝利英の加入】

赤い風車の旗上げ公演は、芝利英が北海中学卒業を間近に控えた1931(昭和6)年の正月からだった。
芝はこのステージを観て、研究生募集に応募する。

五十嵐久一の弟が、北海中学の弓道部にいたらしい。
弓道部の名簿を確認すると、たしかに芝の一年下の後輩に「五十嵐」の名前がある。
ひょっとすると芝が赤い風車のステージを観ようと思ったのも、この五十嵐(弟)がきっかけなのかもしれない。(※1)
芝は弟を通じて五十嵐久一へ入団を頼みに来た。

 北海中(現北海高)弓道部にいた弟が、同期生がレビューをみて、芝居をやりたいといっているから、と連れてきた。夕張出身の石川正(芝利英)君。「親は承知か」というと、冬休みに帰って承諾書を持ってきた。昼は学校、夜は芝居のけい古。芝居はそうでもなかったが、舞踏はうまくなった。すらっとした、いい顔だった。

五十嵐久一「わたしの北海道」

あと数ヶ月で卒業できるにもかかわらず、学校と掛け持ちしてまでレヴュー団に参加したところに、芝の行動力と熱意を感じる。

(※1) 芝利英が赤い風車へ参加した動機について補足を。
益田の話では、芝を引き入れたのは彼らしい。

 益田 彼はぼくとおなじ北中で、ぼくが入れたんです。卒業したというから、玉突き場であって、「こういうレビュー団があって今やっているんだよ。入れよ」といって入れたんです。
(益田喜頓・三国一朗「喜劇旅回り」/『放送文化』1967年6月号)

 しかし逆に芝が益田を誘ってきたことになっている場合もあり(益田キートン「恋すれど恋すれど物語」/『読切倶楽部』1957年11月号)、また後述する『キートンの人生楽屋ばなし』のように芝の加入は「思いがけない再会で飛び上がって喜んだものでした。」という場合もあるので、このあたりははっきりしない。
 芝の加入の直接の伝手は五十嵐の弟だったが、益田とは北海中学時代から映画や芝居のことで趣味が合ったのかもしれないし、益田がどこかで声をかけたのがきっかけで、赤い風車に興味をもったのかもしれない。

【北国巡業】

2月の札幌劇場公演の後、赤い風車は計算外の赤字を取り返すべく道内及び樺太まで巡業することとなった。
その行き先を益田の著書から拾ってみると、夕張、美唄、稚内、コルサコフ(大泊)、サハリン(樺太)、ホルムスク(真岡)、ユジノサハリンスク(豊原)、ドリンスク(落合)、ポロナイスク(敷香)。
そこから札幌への帰り道でも2ヶ月興行したというから、かなりの長旅である。

巡業に出る前に東京へ帰ったメンバーや途中で「ドロン」を決めこんだ者も多く、益田は舞台へ出演しながら裏方もこなして五人分は働いたという。

 その後の「赤い風車レビュー団」は東京から来た俳優と楽士はほとんど退団して東京へ帰ることになってしまい、土地の者と東京高等音楽院(現国立音大)出身の藤田歌手とその妻君の東というインド舞踏のダンサーと彼女の弟子二人、幸いなことにピアニストの関氏が残ってくれました。
 あとは土地の人間で築地小劇場に在籍したことのある若林という役者兼演出家と、石川順というロシアダンスを躍る男が入団して来ました。なんと彼は私が一時北海中(現北海高)に在学中の同級生だったので思いがけない再会で飛び上がって喜んだものでした。

益田喜頓『キートンの人生楽屋ばなし』

ここで「藤田歌手」として登場しているのは、「研究生募集」の新聞広告に窓口として名前が載っていた藤井徹のことだと思われる。(▶︎前回note参照
益田の著書でも、『乞食のナポ––––喜頓短篇集』等では正しく「藤井」となっている。
藤井は東京高等音楽院(現・国立音楽大学)出身の歌手兼ピアニストで、経営面の才能もある人物だったため赤い風車の責任者のような役を担っていたらしい。

そして「石川順」というのは、入団の際に芝利英が名乗った芸名。
「石川順」のサインを入れた写真も残っている。

「石川順」のサインが入った芝利英の写真。

芸名でいうと、益田も当時はまだ「益田喜頓」ではなかったようだ。
のちに益田は
増田姓を名乗る前には牧ひろしなる至極神妙な名で舞台に立っていたものです」(都新聞・1941年5月21日)
と語っており、この「牧ひろし」が当時の芸名だった可能性は高い。

さて、先に引用した文章では、巡業「後」に芝利英が加入する流れになっているが、同じ益田の著書でも『乞食のナポ––––喜頓短篇集』では

 巡業に札幌を出発する寸前研究生として入座した石川順と言う男が居た。

益田喜頓『乞食のナポ––––喜頓短篇集』

と順序が逆転しており、道内巡業に同行したように語られている。 そのため、北海道巡業と芝の加入との前後関係ははっきりしない。

また、もう一人、小樽で公演した際に入団してきた若者がいた。

名前は木田三千雄(※2)。彼も後に浅草へ出て、戦後はテレビや映画で味のある役者として活躍する。
赤い風車に入る前は、小樽の洋服屋の職人だった。

 この人の前身は洋服屋で、芸界へトビこんだ動機というのがチョットかわっている。若いころ北海道へ渡ったが、惚れた女が、旅から巡業にきていた益田キートンたちの一座へ入ったので、女を追っかけて自分も洋服屋の店をタタンで一座へ入り、なンとなく役者になってしまったそうである。

野一色幹夫『浅草紳士録』/1956

(※2)木田三千雄 きだ・みちお
1912年1月11日〜1994年7月29日
青森県黒石市生まれ、北海道出身。北海道函館中部高等学校卒業。
 彼はなぜか益田の著書には出てこないが、木田自身がのちに新聞の企画で「十九歳で転機が訪れ、小樽にきたレビュー一座にはいる。益田喜頓がここにいて…」と語っているので間違いないだろう。(読売新聞/1963年7月1日「お顔拝借」)
 「木田三千雄」は本名。赤い風車時代には別な名前を名乗っていたのかもしれない。

▶︎木田三千雄wikipedia


【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『乞食のナポ:喜頓短篇集』益田喜頓/六芸書房/1967
『浅草紳士録』野一色幹夫/朋文社/1956
「喜劇旅回り」益田喜頓・三国一朗/『放送文化』1976年6月号/日本放送出版協会
「恋すれど恋すれど物語」益田キートン/『読切倶楽部』1957年11月号/三世社
「わたしの北海道」五十嵐久一/朝日新聞道内版/1978年8月23日・24日掲載/朝日新聞社
「お顔拝借:木田三千雄」/「読売新聞」1963年7月1日掲載/読売新聞社
「北海タイムス」/北海道新聞社


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