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(47)消えトン/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
グループの方向性を模索しつつ、第2次あきれたぼういず、川田義雄とミルクブラザースはそれぞれ活躍の場を広げていった。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

昭和15年には「七・七禁令」という、いわば外側からの圧力で大きな方向転換を余儀なくされた両ボーイズ。
1941(昭和16)年も相変わらず情勢は目まぐるしく変化しその活動に影響していく一方、この年はグループ内部からも、いろいろと変化が起こっている。

【新興快速舞隊に改称(1回目)】

2月1日の都新聞は、「あきれたぼういず」が「新興快速舞隊」に改称したことを報じている。
ただし、以降も関西では「あきれたぼういず」として活動しているので、主に関東で活動するときのみ名前を変えていたようだ。規制の厳しさなど、地域によって差があったらしい。
同時期、川田らが所属する吉本ショウも「吉本楽劇隊」に改称している。
(「ミルクブラザース」はそのまま。)

※表記は「新興快速部隊」とも。

【坊屋のノミ屋事件】

3月には、ある事件が起こる。
坊屋がノミ屋で馬券を買った疑いで捕まってしまったのだ。

当時、坊屋は競馬に熱中していた。
そもそも競馬を知るきっかけになったのが、とある芸者。
彼女は芝利英のファンで、あきれたぼういずを柳橋の店へよく招待してくれていたが、そこでとある競馬狂の旦那と知り合ったのだそうだ。

しかし舞台が忙しく馬券を買いに行く暇がない坊屋は、ノミ屋(違法な私設馬券屋のこと)を利用していた。
このノミ屋が摘発され、主人の手帳に書かれていた名前から坊屋も捕まった。

坊屋は京都の五条署に拘留されたのち、東京の愛宕署(ノミ屋摘発をした担当刑事が愛宕署だった)へ移されて取り調べを受けた。
担当した警察官が競馬のことをまるで知らないのであれこれ講釈をしてやったこと、新聞で知ったファンがコーヒーを差し入れてくれたことなど、自伝に案外ノンキに綴っている。
新興演芸部社長の鈴木吉之助からも毛布が届けられたという。

 こんなことはもちろんはじめてだから、“物珍しい”なんていうとおこられるが、なんですョ、警察の留置場ってとこは、時代劇のあの牢屋みたいな感じで、木で造った格子で囲った部屋なんだナ。

 警察は、競馬のことなどなにも知らなかった。馬の名前から、単勝、複勝、勝ち負けなど、いちいち説明しなきゃあならない。あたしは、ちょっとした競馬の先生になっちゃった。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

ところが、自業自得の坊屋に対し、とんだ災難だったのが益田。

ノミ屋の主人の手帳には、「ボウヤ」と並んで「マスダ」と書き付けてあったのだ。
警察は、「ボウヤ」に「マスダ」とくれば、あきれたぼういずの益田喜頓に違いないと、彼も拘置所に入れてしまった。
益田はわけがわからないまま、完全に巻き添えで捕まってしまったのだった。

 戦争直前のことなので、現在と全く異なり、警察は乱暴だった。署へ着くなり「ベルトとネクタイを取って中へ入れ」。まるで罪人あつかいだ。あげくのはては身体検査。坊屋も逮捕されたはずなのに、顔を合わすことがない。留置所が同じ場所ではないからだ。

 私はその話を聞いて、怒るなんてものではなかった。できることなら鉄格子を爆発させて「大馬鹿野郎」と怒鳴りつけてやりたかった。なぜなら、私は競馬場へも行ったことがなく、馬券をただの一枚も買ったことのない男だ。

益田喜頓『キートンの浅草ばなし』

 喜頓は、競馬なんかやらないんだ。その『マスダ』というのは、京都の親分の名前だったんだが、喜頓はとんだ濡れ衣を着せられたわけだ。まったく相すまぬことをしたもんだ。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

 私は愛宕署に二日泊まらせられた。三日目に松竹の弁護士が来てくれて、私になんの罪もないことが明らかになり、調書をとられ娑婆の太陽を見ることができた。警察を出た時の太陽はまぶしく、でも美しく見えた。というのも、坊屋が私の件については、疑うなにものもないことを調書ではっきりいってくれたからだと思う。

益田喜頓『キートンの浅草ばなし』

坊屋が、益田は関係がないことを訴えたので益田は先に出られたらしい。
しかしこの間、残された芝と山茶花で舞台のほうはどうしていたのだろう。

このノミ屋事件、新聞で見たファンがいたくらいなので京都や東京の新聞で報じられたはずだが、見つけられなかった。
ただ、3月29日の都新聞で「アキレタ・ボーイの方は競馬ののみ屋事件にひっかかった……」と噂されているので、この頃だと思われる。

【益田、消えトンす】

そしてこのノミ屋事件の話題も冷めやらぬ4月初旬、いよいよ益田喜頓が本格的に「消えトン」、あきれたぼういずから脱けてしまう。

4月1日から10日まで、あきれたぼういずは京都・南座で「新興演芸部創立二周年記念公演」に出演。
つまり、あきれたぼういずが新興キネマに移籍して丸2年経ったわけだ。
このタイミングで新興演芸部との契約が一旦満了し、そして益田はこれを更新せず、新興演芸部からもあきれたぼういずからも離れていく道を選んだのだ。

新興キネマ演芸部2周年記念公演広告/京都日日新聞1941年3月28日

当初から益田は新興演芸への移籍を「一度浅草を離れ、吉本を離れて修行してもいい」と捉えていたらしかった。
腕を磨いて、また浅草へ帰って来るつもりだったのだ。

新興演芸部を脱けたときの自身の考えを、益田は著書の中で語っている。

 吉本への義理もあった。しかしそればかりではない。私は自らの不勉強、力不足を思い知っていた。このままの状態で「あきれたぼういず」をつづけていったら、早晩自滅以外にないと思った。カルテットにしても、たとえばギターひとつ、ギター演奏だけでお客の拍手を得られる、専門的な技術を養わなくてはならなかった。

そうでなくては、やがては飽きられ、潰れてしまうことになるに違いないと考えていた。

益田喜頓『キートンの浅草ばなし』

しかし、坊屋はこのときの「消えトン」について

 あきれたが、のちに関西にひきぬかれてから、一時益田喜頓がやめたことがあるんですが、これも実はいなくなっちゃったの。

やっぱり、なんというか、自分でこう思ったら、相談も何もしないでやっちゃうというタイプだったんだろうなあ。うん、気分屋だろうね。

坊屋三郎「ちょいと出ましたあきれたぼういず」/『広告批評』1992年10月号

と話している。
益田が、自伝に記したような自身の考えをメンバーにはっきり伝えてから脱けたかどうかは、怪しいところだ。

新興演芸部からはかなり強く引き留められていたようで、一度は

新興快速部隊(旧あきれたぼういず)の益田喜頓は新興演芸部との契約満了を期に脱退を噂されていたが、結局再契約成り、但し新興快速部隊からは分離して、別に一組を組織してやって行く事になった

(都新聞・1941年4月17日)

と報じられるなど情報が錯綜していた。
この再契約の発表は新興演芸部側が益田を引き留めたいがために一方的に発表したのだそうだ。

また、益田の脱退を報じた都新聞の記事の中には

 彼がこの挙に出たのは、先頃から自分の舞台に懐疑を感じていた矢先に、偶々坊屋三郎の競馬事件が発生して、彼は無実でこの巻添えを喰い、京都五條署及び東京の芝愛宕署で数日づつ取調の憂目に遭ったが、この独居中に再考三思した末の決意だけに、相当固いものがあるらしいと見られている

都新聞・1941年4月25日

ともあり、先月のノミ屋事件も関係なくはなさそうである。
契約更新直前のこの事件が、決心を固める決め手になっている気もする。

都新聞1941年4月25日

【参考資料】
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1996
「ちょいと出ましたあきれたぼういず」坊屋三郎/『広告批評』1992年10月号/マドラ出版
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社


(次回12/31)消えトンのその後

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