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(50)川田の入院、芝の出征/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1941(昭和16)年12月8日。日米の開戦により、太平洋戦争が始まった。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

日米開戦とともに年が明け、1942(昭和17)年。
激動の時代の嵐に飲まれ、全国のボーイズが次々と消えていく中、残った二つの灯も、消えようとしていた。

【新興快速舞隊に改称(2回目)】

2月に、新興演芸部の親元である新興キネマが大映と合併。
新興演芸部は独立して「新興演芸株式会社」となった。

3月には「あきれたぼういずは時局下に不適当とあって新興快速部隊と改称」との報道が、今回は京都日出新聞に出ている。
前回(1941年2月)は東京の都新聞での報道だったが、今回は京都。
これで関西でも完全に改称したといえる。

また、ミルクブラザースも1月頃から広告で「ミルクブラザース(乳兄弟)」と日本語名を添えるようになり、徐々に「乳兄弟」表記に移行している。

【敵国旗を射る】

3月、新興演芸部は浅草松竹座で上京公演を行っている。
あきれたぼういず改め新興快速舞隊は「楽しき日向路」というショウに出演。
これは聖地巡礼を主題にしたもので、四人は巡礼者になって白装束姿で舞台を縫い、音楽掛け合いや寸劇をやっている。

新興快速舞隊に再改称した直後であり、かつ日米開戦後初の上京公演。
ジャズを禁止され、ナンセンスな笑いも封じられ、国策に添った表現を求められ、多くのボーイズが消えていく中で、どんな舞台を見せていくのか。
ショウの中のある印象的な演出が、都新聞で紹介されている。

…「楽しき日向路」の大詰で上手舞台奥に吊るした、敵国米英の二国旗を、下手エプロン上から、ヒョウと引き絞って、射て落すのである、この射手は、聖地巡礼姿の坊屋三郎、芝利英の二人だが、初日を開けて十幾日、一度の失敗もないのは的の国旗が素晴らしくデカいという外に、二人の腕前も物を言っているらしい
 即ちこの兄弟は共に北海中学の出身で、在学中は弓道部の選手、そして共に初段を得たが、兄坊屋は日大に入るに及んで、更に腕を磨いて三段を獲得しているのだから、正に外れはない筈…

「演芸一皿料理:敵国旗を射る・余技以上の弓道」/都新聞・1942年3月28日

学生時代に弓道部だった坊屋と芝がその腕前を活かし、敵国となった米・英の国旗を舞台の対角線上から射落としてみせたという。
成績は百発百中で、また楽屋では星条旗の縞の赤に当たるか、白に当たるかの賭けまで始まって「きょうは是非赤い方を」と坊屋にこっそり頼みにくる者までいたそうな。

的を敵国旗にすることで、かなり露骨に敵愾心を表現し「国民娯楽」の方針に沿ってみせている一方、遠くから矢を射って当ててみせるという純粋なアトラクション的面白さも感じられる。
制約の多い中にも、派手でトリッキーな「第二次あきれたぼういず」らしい演出をいろいろと工夫、考案しているのがわかる。
萎縮していく一方の演芸娯楽の中で、観客の気持ちを晴らして喜ばれたことだろう。

浅草松竹座広告。この公演中にハット・ボンボンズは「愉快な楽人」に改称した/都新聞・1942年3月14日

【益田、帰る】

そしてこれも3月、益田が参加していた東宝演劇が解散。
益田はなんと一年振りに、新興演芸部に戻ってくる。
では古巣のあきれたぼういずへ帰るのかと思えば、そうでもないようで、都新聞は益田のプランをこう伝えている。

尚喜頓は新興に戻っても、舊(もと)のあきれた・ぼういずの一員になるのではなく、昔から気も合い、芸についても許し合っていた芝利英とコンビして何か新らしい舞台を創り出したいと考えているようである

都新聞・1942年3月8日

あきれたへは戻らないが、デビュー当時からの親友である芝だけを誘って何か新しいことをやりたいという構想があったようだ。
結局、芝はあきれたに留まったため実現はしなかったが、もし実現していたらどのような活躍を見せてくれたのだろう。

益田はこれ以降、大阪のアシベ劇場、浪花座を中心に新興系の劇場に出演していくが、新興快速舞隊とはいつもすれ違いで、共演することはなかった。
ときには同じ大阪市内で、新興快速舞隊と益田が同時に公演していることもありもどかしい。
広告を見ると、「頓チャン短篇集」と題したシリーズものの短篇芝居をやっている。

アシベ劇場広告/大阪毎日新聞・1942年4月21日

また、11月にはオペレッタ映画「歌ふ狸御殿」にカッパ役で出演。可笑しくもペーソス漂う、益田らしいキャラクターで好評だったようだ。

【ミルクブラザース解散】

…ここで気になるのは彼の健康と、挙措進退に踏ン切りの悪いその優柔さである

都新聞・1941年12月30日

昨年11月から活動を再開したミルクブラザースは、以降東京を中心に変わらぬ奮闘ぶりを見せている。
しかし、川田自身も周囲も、皆が心配していたことがついに現実となってしまう。

4月末、川田は大阪の北野劇場での公演中に倒れた。
少年時代から彼を苦しめた脊椎カリエスの再発だった。
ここ数年の無理が祟ったのは言うまでもない。

北野劇場広告/大阪毎日新聞・1942年4月1日

そのまま川田は慶應病院に入院となった。
入院の世話一切は吉本興業東京支社長・林弘高がやってくれたそうだ。

ミルクブラザースはやむなく解散。
岡村、頭山、有木の三人は個人で吉本楽劇隊(吉本ショウ)に出演を続けた。

8月20日から、新興快速舞隊が上京して浅草国際劇場に出演しているが、このとき坊屋が入院中の川田を見舞いに訪ねている。

 読書に次いでは見舞客を相手の談論風発だが、この見舞客に昨日の午前は珍しい顔が見えた、その昔一緒になってあきれた・ぼういずを興した仲間の坊屋三郎でいま国際劇場に短期出演中の暇に駆けつけたのだ、顔を見るなり「ヤア」「ヤア」と、朗かな応酬である、「案外元気じゃないか、ドレ僕が一つ脈を診てやろう」と、坊屋が川田の手首を取るなり「こりゃア大変、脈が止まっている」と叫ぶと、川田が「そこは違うヨ、ここだヨ」と、丸で昔の花月の舞台その儘だ
 「薬を飲むより、生ビールの冷たいのをグッとやった方がいいんじゃないか」と坊屋が飛んだ誘いをかければ、川田は「ウン、生ビールか、飲みたいな」とグッと生唾を飲む等飛んだ病床風景を描き出して、付添の看護婦さんも呆気に取られた

「昔の仲間坊屋三郎が病床の川田を見舞う」/都新聞・1942年8月26日
同記事写真

【芝利英、出征】

11月1日から、新興快速舞隊は再び上京。
新宿大劇場(新宿松竹座)で公演している。

新宿大劇場プログラム・1942年11月1日

そして、これが芝利英の名前が確認できる最後の舞台となった。
芝に召集令状が届いたのだ。

 いまの若いもんがこんなものもらったらひっくりかえるんじゃあないかなんて、つい思っちゃうが、芝利英は、あの二枚目の顔をキリリと引締めて、「お国のために行ってまいります!」と、日の丸の小旗に送られて、伏見の連隊に入営した。
 これが今生の別れ、彼はついに戦死してしまうんだが、いまでもあのときの彼の顔が思い出されるョ。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

二の替りにあたる11月11日からの新興快速舞隊の公演は、主要都市の新聞からは見つけることができなかった。
新興演芸部の公演自体は各地でやっているので、芝の出征に伴い編成を見直す為、快速舞隊だけが休演していた可能性もある。
三の替り、21日からは京都松竹劇場に登場、この公演から芝の穴埋めに長井隆也が加入した。
昨年の「消えトン」のときにもピンチヒッターで参加していたギター奏者だ。

これで、あきれたぼういず結成当初からのメンバーは坊屋一人のみとなった。

芝利英と妻・千代さん

【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『松竹百年史』東京松竹/1996
『近代歌舞伎年表 京都篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1995
『近代歌舞伎年表 大阪篇』国立劇場近代歌舞伎年表編纂室/1994
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社
「大阪毎日新聞」/大阪毎日新聞社
「中日新聞」/中日新聞社
「神奈川新聞」/神奈川新聞社
「神戸新聞」/神戸新聞社


(次回1/21)ボーイズに終止符

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