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(32)有楽座でロッパと共演/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
「アキレタ・ダイナ」が発禁になって吹き込み直した「四人の突撃兵」は無事発売され、あきれたぼういずは念願のレコードデビューを果たした。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【突撃開始】

1938(昭和13)年12月新譜「四人の突撃兵」、翌月の「スクラム組んで/空晴れて」と立て続けにビクターから発売されたあきれたぼういずのレコードは大いに売れ、彼らの知名度を一気に全国区のものにした。

レコードだけ知っている芸者が益田本人に向かって「ね、あきれたぼういずっておもしろくていいわね」と聴かせてくれたこともあったそうだ。

 いよいよ「あきれたボーイズ」のレコードの吹き込みがビクターで始まりました。これがまた大変な評判で、街を歩いていますとレコード店の中から聞こえてきたものです。
 どのくらい売れたか、そんなことを考えるよりレコードへ吹き込み、ラジオに出られたということだけで喜んだものでした。
 しかし、のちにビクターの会社の方から聞きましたら、二十万枚以上ということです。それなのに吹き込み料として二十円ずつ吉本興業からもらって飛び上がるほど喜んだとは純情可憐なアキレタボーイズではありませんか。

益田喜頓/『キートンの人生楽屋ばなし』

ここから彼らは驚くべき勢いでスターへとのし上がっていく。
あきれたぼういず伝説、幕開けである。

【ラジオ出演】

1938(昭和13)年12月7日昼、全国放送のラジオ出演が確認できる。
全国区で、あきれたぼういずが主役の放送はこれが最初ではないかと思う。
番組はラジオコメディ『首途(かどで)の合唱』で、吉本ショウ文芸部の中澤清太郎の作。

四人の楽士として川田(赤木)はじめあきれたぼういずの面々が出演。
ヒロインの冬江を棚木みさをが演じるほか、嵯峨静江、岡村龍雄、賀川龍子、桜文子、町田金嶺という吉本ショウの面々が出演、東京放送管弦楽団の伴奏がついている。
歌と音楽の入ったラジオドラマのようなものだろうか。

都新聞のラジオ欄にはそのあらすじも紹介されており、当時のバラエティがどのように時局を反映していたかを知ることができる。
「単に笑わせるだけの低俗なもの」は良しとされず、喜劇ですら、時局に沿った啓蒙的な要素が求められていた。

 浅草公園近くのある小さな下宿屋に、四人の朗らかな楽士が泊っていた、彼等はこの汚い下宿を出て、小綺麗なアパートへ移ろうと、前々から考えていたが、下宿の主人が出征したので、後に残った女将さんの為に、思い止まって、今日まで過して来た、此の下宿に冬江という花売娘がいた
 彼女は滞っている下宿代の一部にしようと思って、大事にしていた金で、愛国貯蓄債券を買ってしまう、女将さんもその心持を知って下宿代は何時でもいいというが、楽士の一人赤木は冬江の為になけなしの金を出して下宿代に当ててやった
 間もなく赤木の所へ召集令が来た、丁度その日冬江の債券が当って、割増金千円を貰ったので、冬江はそれを赤木の餞別にと差出すが、赤木は受取らず結局四分の一は献金し、残りはこの下宿を小綺麗なアパートに改造する費用に当て、
 亭主を出征させた女将さんの銃後の憂いをなくすことにしようと話がきまり、下宿人一同で赤木の歓送の宴を張る

都新聞ラジオ欄/1938年12月7日

クライマックスの宴のシーンで、あきれたぼういずが得意のネタの数々を披露し大いに活躍したことだろう。

ちなみに、吉本ショウの歌手の花形だったミス花月は秋に益田と結婚、ショウを引退している。
以前、ラジオで吉本ショウが放送した際はコメディエンヌぶりを発揮していたが、今回は名前がない。

【丸の内進出・有楽座】

有楽座の正月公演に出演する予定の古川ロッパは、ゲストに招くはずだった奇術師の松旭斎天勝が出られなくなり、プログラムに悩んでいた。
そんなある日、砧の東宝撮影所を訪れたロッパが見かけたのが、あきれたぼういずである。

 十一時まで眠る。二時半、迎へ来り砧村へ。鈴木静一の棒、あきれたぼういずが来てプレスコしてゐる、ふと思ひつき、天勝の代りに此の四人を使はうと、樋口から吉本へ申込ませることにした。で、題も「ロッパ・フォリース」と定め、上山と合作する。

『古川ロッパ昭和日記:戦前篇』昭和13年12月1日

この縁で、念願の「丸の内進出」がついに叶うことになった。
有楽座は有楽町に1935(昭和10)年に完成した東宝系の劇場で、定員が1600人。
この時期ロッパが本拠地にしていた劇場だ。

あきれたぼういずはこの正月公演に先駆けて、年末12月24日から28日までの5日間、同じく有楽座の「祝戦勝笑ひの名流大放送」に出演している。
これは人気どころの芸人たちを集めて有楽座で開催される特別公演で、浅草花月劇場との掛け持ち出演だと思われる。
十八番のダイナなどを賑やかに繰り広げたことだろう。

そして年が明けて、1939(昭和14)年1月1日から29日までのほぼ一ヶ月間、いよいよ有楽座の古川緑波一座新春公演にゲスト出演。
本格的な丸の内での公演としてはこれが初だ。
ステージに四人が出るや、その客席の湧きようはロッパをクサらせる程だったという。

 川口松太郎来り例の調子で「あきれたぼういず以外はつまらんねえ」と言って皆をクサらせる。

『古川ロッパ昭和日記』昭和14年1月3日

 最後の「ロッパ・フォリース」は前後十八景で、色々な題材と情景とが取込まれ、豊島の唄や稲葉のタップダンスや、四人の「あきれたぼーいず」の芸づくしやが賑やかである

青々園「有楽座劇評・緑波が心配だ」/都新聞・1939年1月9日

【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『古川ロッパ昭和日記:戦前篇』古川ロッパ/晶文社/1987 ※青空文庫より引用
『都新聞』/都新聞社


(※ 映画出演まで書く予定でしたが、追記してボリュームが増えてしまったので2回に分けます。すみません!)

(次回9/17更新)日劇出演と映画デビュー

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