(34)四万人の歓声/あきれたぼういず活動記
(前回までのあらすじ)
1939(昭和14)年1月には丸の内進出を果たし、さらに映画にも初出演して乗りに乗っている、あきれたぼういず。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【凱旋公演】
丸の内進出を終え、2月にひと月ぶりで懐かしの浅草花月劇場に帰ったあきれたぼういずは、まさに「浅草が生んだ大スター」になっていた。
丸の内公演で得た新たなファン達も、浅草までやって来た。
浅草六区の人気者だったあきれたぼういずは、全国区のスターになったのだ。
人気絶頂期の浅草花月劇場の熱気のものすごさは、坊屋の回想からもよくわかる。
【雑誌の特集】
この時期、雑誌への露出も劇的に増えている。
これまでも『キネマ旬報』等に劇評は出ていたが、新たに座談会記事のような企画物への露出が目立つ。
いくつか、筆者が把握しているものを並べてみる。
・『映画情報』新年号「あきれたぼーいず座談会」……本書でもたびたび引用している、吉本ショウの面々も混じえての座談会。
・『婦人画報』2月号…写真家・濱谷浩が撮影した浅草の劇場の裏側。深夜の浅草花月劇場の客席で練習中のあきれたぼういずの写真は、CD『楽しき南洋』でも見ることができる。
・『キネマ旬報』3月号「快賊四銃士」…劇評。2月21日からの浅草花月劇場公演のものと思われる。
・『オール読物』4月号「あきれたぼーいずを観る」…こちらは記事を確認できておらず内容不明。劇評のようなものか。
・『講談倶楽部』春の増刊号「ざつおんコント・あきれたぼういず」…こちらも内容不明。彼らのネタを文字起こしした読み物か、座談会記事だろうか。
・『モダン日本』5月号「呆れたボーイズ・春に酔えば」…座談会記事。川田の結婚の話題や、後楽園球場の話題が出ており、3月10日頃に語ったものだとわかる。
あきれたぼういずを雑誌で見ない月はないという状況で、全国的に人気があったことがわかる。
また、都新聞の演芸面にも、コラムやゴシップなど様々な形で露出が増えている。
そして『キネマ旬報』の劇評では、あきれたぼういずの新たな可能性について触れられている。
ギターを持って歌や掛け合いをやるお馴染みのヴォードヴィル芸だけでなく、劇中の場面に応じて登場し、楽器を持たない一人一人のコメディアンとして活躍する可能性を見せているという。
元々はそれぞれ個人で活躍してきた彼らだが、「ボーイズ」スタイルと併せて見せることでまた違った効果を生んだことだろう。
この路線で、あきれたぼういず主演のミュージカルコメディ映画を撮ることができたら素晴らしかっただろうと想像する。
【後楽園球場が湧く】
3月4・5日には、後楽園スタジアムのプロ野球試合のアトラクションに出演。
エンタツ・アチャコの漫才「六大学野球」のヒットからもわかるように、当時は大学野球の人気は凄かったが、一方プロ野球は現在ほどの人気がなく、そのため集客のアトラクションを工夫していたようだ。
後楽園スタジアムは1937(昭和12)年に完成したばかり。
あきれたぼういずはその3万8千人収容の球場を満員にした。
ピッチャーマウンドのあたりにマイクを据え、四人の声が場内アナウンス用の巨大なスピーカーから響くと、場内一杯に歓声が響いた。
四人は直後の座談会記事でその感激を語っている。
しかし、この異常な人気振りの最中、4万人の歓声に包まれながら、益田はふと不安な予感を覚えていた。
結成からわずか一年半の間に、急激に売り出していったあきれたぼういず。
こんな勢いが、そう長く続くものだろうか……。
そしてこの予感は、思わぬ形で的中していく。
【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『古川ロッパ昭和日記:戦前篇』古川ロッパ/晶文社/1987
※青空文庫より引用
「疑惑」小林秀雄/1939年7月
※『小林秀雄文庫 第3(私の人生観)』より引用/中央公論社/1954
『キネマ旬報』1939年3月号/キネマ旬報社
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」益田喜頓・坊屋三郎・野口久光・上山敬三/LPレコード「珍カルメン・オリジナルあきれたぼういず」/ビクター音楽産業株式会社/1964
「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号/モダン日本社
「あきれたぼういず・坊屋三郎の青春」/『LB中洲通信』1995年7月号/リンドバーグ
「都新聞」/都新聞社
(次回10/1更新)密使、来たる
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