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(34)四万人の歓声/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1939(昭和14)年1月には丸の内進出を果たし、さらに映画にも初出演して乗りに乗っている、あきれたぼういず。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

 僕は先日、或る劇場で近頃評判の「アキレタ・ボーイズ」という最新式漫才とも称すべき一団の藝人の演技を見物していた。まことに呆れたボーイ達が、頸からギターを吊し、貧弱な和絃を掻き鳴らし乍ら、ジャズの小歌を歌ったり、浪花節を唸ったり、声色を使ったり、それこそ殆んど形容の言葉を知らぬ力演振りであった。ユーモアなどという余裕のあるものは、薬にしたくもありはしない。見様によっては、どうかして見物を笑わしたいと殺気立っているとも受取れ、見物は足の裏を擽られる様な声を出して笑っていた。
 僕は人並にゲラゲラ笑い乍ら、これが現代だ、とふと考えていた。

小林秀雄「疑惑」/1939年7月

【凱旋公演】

丸の内進出を終え、2月にひと月ぶりで懐かしの浅草花月劇場に帰ったあきれたぼういずは、まさに「浅草が生んだ大スター」になっていた。

 冒頭の出演者紹介のなかで、あきれたぼういずがさっそうと「丸の内遠征を終えて浅草に帰ってまいりました」と挨拶すると、客席に歓呼の声が湧いて、この浅草出身の世紀のコメディアンを温かく迎えたところなど、浅草に生まれた吉本ショウのみごとな成果を象徴するものであった。

瀬川昌久『ジャズで踊って』

可東  花月劇場へわざわざ銀座や山の手からやって来る客の殆どが、あきれたぼーいずを目的に来るらしい
坊屋  あんまりオダテるなよ
田添  そりゃ本当ですよ
坊屋  姐さん、お酒をもっと沢山(笑)

「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号

丸の内公演で得た新たなファン達も、浅草までやって来た。
浅草六区の人気者だったあきれたぼういずは、全国区のスターになったのだ。
人気絶頂期の浅草花月劇場の熱気のものすごさは、坊屋の回想からもよくわかる。

――当時の“あきれたぼういず”の舞台というのはどういう雰囲気だったんですか?
坊屋  出てくるだけでお客さんがワーッていう感じでしたよ。当時の客は今とまるで逆ですよ。正月興行なんていうと七百人の定員のところを三千人くらい入れちゃうんだから(笑)。客席の両側にある手すりが宙に浮いてるの、取れちゃって。客がその手すりを外しちゃってるわけですよ。で、客があんまりうるさいと途中でいっぺん緞帳をしめちゃう。静まったころ緞帳を上げて続きをやる。
 今は客席からテープが飛んでくるけど、昔は舞台から客席へテープを投げたもんだよ。
――それをお客さんが奪い合うわけですね。

「あきれたぼういず・坊屋三郎の青春」/『LB中洲通信』1995年7月号

【雑誌の特集】

この時期、雑誌への露出も劇的に増えている。
これまでも『キネマ旬報』等に劇評は出ていたが、新たに座談会記事のような企画物への露出が目立つ。
いくつか、筆者が把握しているものを並べてみる。

『映画情報』新年号「あきれたぼーいず座談会」……本書でもたびたび引用している、吉本ショウの面々も混じえての座談会。
『婦人画報』2月号…写真家・濱谷浩が撮影した浅草の劇場の裏側。深夜の浅草花月劇場の客席で練習中のあきれたぼういずの写真は、CD『楽しき南洋』でも見ることができる。
『キネマ旬報』3月号「快賊四銃士」…劇評。2月21日からの浅草花月劇場公演のものと思われる。
『オール読物』4月号「あきれたぼーいずを観る」…こちらは記事を確認できておらず内容不明。劇評のようなものか。
『講談倶楽部』春の増刊号「ざつおんコント・あきれたぼういず」…こちらも内容不明。彼らのネタを文字起こしした読み物か、座談会記事だろうか。
『モダン日本』5月号「呆れたボーイズ・春に酔えば」…座談会記事。川田の結婚の話題や、後楽園球場の話題が出ており、3月10日頃に語ったものだとわかる。

あきれたぼういずを雑誌で見ない月はないという状況で、全国的に人気があったことがわかる。
また、都新聞の演芸面にも、コラムやゴシップなど様々な形で露出が増えている。

そして『キネマ旬報』の劇評では、あきれたぼういずの新たな可能性について触れられている。

「快賊四銃士」(吉本ショウ)

 全体として見て、成功した作品とは云えないが、「あきれた・ぼういず」を中心として進む場合の吉本ショウに、ひとつの方向を暗示する一篇として、仲々興味が深かった。
 「あきれた・ぼういず」、は四人組のギャングとして登場する。この四人を中心として、筋と云えない様な筋が、ちょびっと顔を出す。つまり彼等が汽船に乗り込み、その汽船の甲板の一部を舞台として、お馴染の連中が芸を見せるので、つくりつけの一景にバンドも舞台へ上げてその前で場面が進行するという趣向である。
 …(略)…
劇的な要素が加わった場合、「あきれた・ぼういず」が更に新たなる面白さを発揮し得ることを、充分に理解せしめるものが、瞥見し得るのである。彼等はギタァその他の楽器を持たずに登場する。勿論、最後には楽器を手にするが、その間、益田喜頓はキイトン風な味の動きを示し、坊屋三郎はシコ風な動作をする。そして場面を綺麗に渫う。潜水夫のギャグなども大いに楽しく演る。こうした場面を見ると、彼等が、マルクス兄弟の如く、ひとつの劇に登場して自由に活躍する可能性があることが、推察し得るのである。他にも腕の立つ人が揃っていることだし、筋の通ったミュウジカル・コメディを構成したら、いくらでも面白いものが出来ると思う。

双葉十三郎〈スペクタクル〉「広東陸戦隊」と「快賊四銃士」/『キネマ旬報』1939年3月号

ギターを持って歌や掛け合いをやるお馴染みのヴォードヴィル芸だけでなく、劇中の場面に応じて登場し、楽器を持たない一人一人のコメディアンとして活躍する可能性を見せているという。
元々はそれぞれ個人で活躍してきた彼らだが、「ボーイズ」スタイルと併せて見せることでまた違った効果を生んだことだろう。

この路線で、あきれたぼういず主演のミュージカルコメディ映画を撮ることができたら素晴らしかっただろうと想像する。

可東  脚本が難しいと思うが、あきれたぼーいずでアメリカのマルクス兄弟のような映画をつくると面白いがなァ
川田  そいつが、僕等の夢なんですよ。実現させたい夢なんです

「あきれたぼーいず座談会」

【後楽園球場が湧く】

3月4・5日には、後楽園スタジアムのプロ野球試合のアトラクションに出演。
エンタツ・アチャコの漫才「六大学野球」のヒットからもわかるように、当時は大学野球の人気は凄かったが、一方プロ野球は現在ほどの人気がなく、そのため集客のアトラクションを工夫していたようだ。

後楽園スタジアムは1937(昭和12)年に完成したばかり。
あきれたぼういずはその3万8千人収容の球場を満員にした。
ピッチャーマウンドのあたりにマイクを据え、四人の声が場内アナウンス用の巨大なスピーカーから響くと、場内一杯に歓声が響いた。
四人は直後の座談会記事でその感激を語っている。

川田  最近一番気持のよかったのは後楽園のスタジアムだったな。
坊屋  凄い観衆だったなァ。
益田  皆んな昂奮したな。出ると声がかかって…、野球と吾々を見る心理は同一らしいね。
芝    一人七十銭で四萬人が三日だから十二萬人でいくらになる、あんなことはこれからもないだろうね。
坊屋  スタンド全体の人が一人も歩いている者がいないのには全く感激したね

「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号

しかし、この異常な人気振りの最中、4万人の歓声に包まれながら、益田はふと不安な予感を覚えていた。

益田  おれはあのときに、人気というのもここまできちゃ、これが限度だと控え室で考えさせられたわけなんだ、これはえらいことになったと思ってね。川田のヨッチャンが「オイ、頓チャン、どうしたんだ」と言うから、「いや、ヨッチャン、この辺でもうヤマだよ。これ以上人気が上がるということは考えられない。この辺でおれたち、ちょっと考えなきゃいけないなァ」「そんなバカなこと言っちゃいけないよ。おまえ、これからだよ」あの人は威勢のいい人だからね。

「オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」座談会

結成からわずか一年半の間に、急激に売り出していったあきれたぼういず。
こんな勢いが、そう長く続くものだろうか……。

そしてこの予感は、思わぬ形で的中していく。


【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『古川ロッパ昭和日記:戦前篇』古川ロッパ/晶文社/1987
  ※青空文庫より引用
「疑惑」小林秀雄/1939年7月
  ※『小林秀雄文庫 第3(私の人生観)』より引用/中央公論社/1954
『キネマ旬報』1939年3月号/キネマ旬報社
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」益田喜頓・坊屋三郎・野口久光・上山敬三/LPレコード「珍カルメン・オリジナルあきれたぼういず」/ビクター音楽産業株式会社/1964
「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号/モダン日本社
「あきれたぼういず・坊屋三郎の青春」/『LB中洲通信』1995年7月号/リンドバーグ
「都新聞」/都新聞社


(次回10/1更新)密使、来たる

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