見出し画像

(10)話題の転入生:北海中学②/あきれたぼういず活動記

(前回のあらすじ)
坊屋と芝は兄弟揃って北海中学に入学、弓道部に入った。

▶︎坊屋が最上級生の5年生になった年、“彼”が転入してくる。

【話題の転入生】

坊屋が部長となった1928(昭和3)年、北海中学に一人の転入生があった。
函館商業学校で野球部のエースとして活躍していた木村一……そう、益田喜頓である。

北海道内の学生野球において「北中の高瀬か、函商の木村か」と言われていたことは(5)で書いたが、
その「北中の高瀬」が卒業してしまい、代わりのエースとしてスカウトされたのだ。
年齢としては坊屋の一つ上だが、芝と同学年の3年生に転入となった。

 監督につれられて戸津校長先生へ面会にいった時は度肝を抜かれました。優勝旗とトロフィーがひょっとするとこの学校で造ってるのではないかと思うほど所狭しと並んでいるではありませんか。「一生懸命頑張ってくれ給え」と校長に言われ、転校して来た若輩でしたが、練習に励みました。

益田喜頓『人生楽屋ばなし』

野球のエースでしかも年長者の木村の転入は学内ではなかなかのニュースだったらしい。
坊屋は当時「ヒゲの濃いヤツ来たぞ」と噂になり見に行ったと後年の座談会(「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」)で語っている。

また同座談会で益田は、坊屋が野球部のマネージャーをしていたと発言している。
部報など当時の学校資料からはこれを裏付ける情報は得られなかったが、
坊屋自身「時々、野球部の部屋に顔を見せていた」とも話していたようなので、
正式なマネージャーではないにしろ、何かと世話を焼いていた可能性はある。

弓道部部長兼主将のかたわら、他の部の手伝いまでやっていたというのなら全く驚きの活発さだ。
ついでに書いておくと、この年の卒業アルバムの編集委員もやっている。

残念ながら益田は腸チフスを発症してしまい、
期待された野球部での活躍もほとんどないままに半年ほどで退学することになってしまう。
しかし、あきれたぼういずのメンバーのうち三人が北海中学に在学していたというのは興味深い。

【自由な校風】

北海中学からは他にもロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲った陸上選手の南部忠平など多くの有名人が輩出されている。

あきれたぼういずと縁のあるところでは、テレビ草創期に活躍したコミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のヒット曲の多くを作・編曲した萩原哲晶(元々、クレージーキャッツの前身「キューバンキャッツ」時代のメンバーでもあった)も北海中学出身である。

こういった人材が育った背景には、その校風があったようだ。

 校長の戸津高知は、障害者や教育を受ける機会に恵まれない青年、官立中学からの『落伍者』らに、積極的に門戸を開いた。

 教師たちは彼らを、荒れ地にも根を下ろす『タンポポ』と呼んだ。やがて、小さな種が風に乗ってどこまでも飛んで行き、太陽に向かって真っ直ぐに花開かせることを信じたーー。

梶田博昭『百折不撓物語』

そんな校長らの思いもあり、北海中学では教師も生徒も個性豊かでのびのびとした校風であり、また教師と生徒との距離も近かった。
坊屋は北海中学の名物教師たちにずいぶんあだ名をつけたという。

 あたしの通ったこの北海中学というのは、当時には珍しい自由の気風あふれた学校で、あのロスアンゼルスオリンピックの三段飛びで優勝した南部忠平さんもあたしの先輩だが、あの人なんか他の生徒が授業を受けてるのに、たった一人グランドを走ってるんだな。
 そのくらい自由で、のびのびしてた。だからみんな個性的でデッカイ夢を抱いていた。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』
drawn by お絵描きばりぐっどくん

【参考文献】
LPレコード「珍カルメン・オリジナルあきれたぼういず」歌詞カード掲載「座談会・オリジナル“あきれたぼういず”の想い出」/ビクター音楽産業株式会社
『不撓の猛者たち』/「読売新聞道内版」1985年7月〜9月連載/読売新聞北海道支社
「ちょいと出ましたあきれたぼういず」坊屋三郎/『広告批評』1992年10月号より/マドラ出版
『人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『百折不撓物語』梶田博昭/読売新聞北海道支社/2005
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『北海中学・北海高校弓道部100周年記念誌』北海高校弓道部星箭会100周年記念事業実行委員会100周年記念誌編集委員会/2013
『協学会誌』私立北海中学校(校内誌)/1928〜1931


▶︎(4/16UP)坊屋、進学先に悩む

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?