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(36)板挟み:引抜き騒動②/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
あきれたぼういずの元へ、新興キネマ演芸部から移籍の話が舞い込んだ。
現状の不満を解消してくれる好条件を提示され、契約金を受け取ったあきれたぼういずだが……

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【板挟み】

新聞等の報道を見ると、あきれたぼういずに引き抜きの動きがあったのは、ワカナ・一郎やラッキー・セブンらより少し後である。
吉本興業側はあきれたぼういずの動きを察知し、引き止めにかかった。

3月26日、吉本興業東京支社長・林弘高は、川田を呼び出して引き抜きの件を聞き出したらしい。
いや、坊屋はむしろ川田のほうから林に喋ったのではないかと考えている。

昨年秋、松竹楽劇団への移籍の話があった際に林の帰国を待った川田の行動を考えれば、十分あり得ることだ。(note29参照
世話になってきたオヤジ氏に黙って吉本を去るのは忍びない。
洗いざらい話してしまって、納得してもらった上で円満に移籍しようと考えたのかもしれない。
しかし、そこで林がストップをかけた。
これもやはり松竹楽劇団のパターンと同じだった。

林の必死の説得に川田の気持ちが動いたのか、そもそも始めから移籍に乗り気ではなかったのか、川田は吉本にとどまる意志を固めていた。
しかし、坊屋や益田の気持ちは変わらない。
吉本側は川田に続き、芝利英も呼び出して説得を試みたそうだが、芝がどう考えたかは残念ながらわからない。
ともかく、四人の気持ちにはズレが生じていた。

新興キネマからの契約金はすでに受け取っている。
あきれたぼういずは、両社の板挟み状態に陥ってしまった。

一昨年、1937(昭和12)年には、俳優の長谷川一夫が松竹から東宝へ移籍した直後、顔を斬りつけられる事件が起きていた。
翌1940(昭和15)年には、浪曲師・二代目広沢虎造の映画出演問題が暴力団の抗争へ発展した「浅草田島町殺傷事件」も起こる。
当時の芸能界のいざこざは、文字通り命がけの問題だった。
こうなった以上、グズグズしている時間はない。

じっくり話し合う機会もないまま、3月28日(※1)の終演後、坊屋、芝、益田の三人は川田を残して散り散りに姿を消した。
一方、川田は吉本の護衛・監視付きで、熱海の温泉宿でカンヅメにされた。

新聞や雑誌は「あきれたぼういずバラバラ事件」と大きく報じ、連日様々な噂や意見が飛び交った。
『モダン日本』に曰く。

 北は北海道から、西は九州博多まで、日本国中を舞台にして四人は新興の手で転々と居所を変え、吉本側の若い者がそれを追い掛けると言う、物凄い争奪戦になってしまった。

「あれやこれ・脱退騒ぎの真相」/『モダン日本』1939年6月号

以前カジノ・フォーリーの舞台で「玉ノ井バラバラ殺人事件」の被害者役を演じた川田だが、その7年後、本当にバラバラ事件の被害者になってしまった。

(※1)『モダン日本』では27日、京都日日新聞では28日、都新聞では29日となっている。29日から出演予定だった、新宿東宝映画劇場「春の特別豪華ショオ」に出演しなかったようなので、28日以前だと思われる。

【坊屋の足跡】

坊屋はひとまず、向島の待合に逃げ込み、かくまってもらった。
しかし「行動力」の坊屋、東京にぐずぐずしているのはよくないと、一息に新興キネマのある京都まで行ってしまうことにした。

ただし、新興キネマ社長の永田雅一から「東京駅はヤバイから北陸廻りでダラでこい……」と電話で指示が入る。
変装して上野からダラ、つまり鈍行の三等車で北陸回り、米原まで十八時間かかった。

 エライことになっちゃったなァなんて、ほんと、ちょっと後悔の念もわいたが、なにしろ契約に調印したんだから、萬難を排して行かなけりゃあ男がスタるてなもんだ。

坊屋三郎/『これはマジメな喜劇でス』

米原では、坊屋同様に顔を隠した伴淳三郎と「新興が用意してくれたその筋のおニイさん」が出迎えに来ていた。
そこから京都までは、打って変わっての展望車だ。

こうしていち早く新興演芸部へ移った坊屋は、4月7日の都新聞で早くも姿を現し、今回の移籍についての意見を語っている。

  四人の問題だけではない
 事志と違って、こんな工合に連絡の途が絶たれてしまったので弱ってはいますが、僕達の決心も約束も固いので他の三人も遠からずやって来るものと信じています、僕達の今度の挙は単に僕達四人の問題ではなく、不満の多い興行システムの改善に、一石を投ずるという意味も含めたものです。
 先ず一例を挙げるならば、芸人の過労使用です、三十人の所属芸人が健康診断を受けたら、そのうちの十人が再診察を要すると言われたなどとは、休養少なき酷使の現われでなくて何でしょう。こういう弊は、是非除去しなければなりません、これに刺激を与える事も今度の自分達の役割だと思うと前途には明るい陽が射すような気がします、万々が一に三人が来ないような事があっても、僕は一人で踏止まって目的貫徹に邁進します

都新聞/1939年4月7日

坊屋はのちに『アサヒグラフ』(1995年12月1日号)でも「われわれの引き抜きというものは、われわれ演芸をやっている者の地位向上、レベルアップに貢献したと思ってます」 と語っている。
芸人の待遇改善を目指す気持ちが、大きな動機のひとつだったことは確かなようだ。
現状を俯瞰的に捉える視点と行動力は、非常に坊屋らしい。

実際、この引き抜き騒動を機に芸人の待遇問題が話題に上り、移籍したにしろ留まったにしろ、待遇を見直してもらった者がかなりいたようだ。

【益田の逃走】

消えるのはお得意の「消えトン」こと益田喜頓は、楽屋口から抜け出すと銀座のカフェーへ隠れ、そこへ妻のミス花月に金を届けてもらうと、故郷函館に逐電した。

ところがその道中、東北本線の食堂のボーイが彼の顔をジロジロ見て、「失礼ですが、あなた、益田さんじゃありませんか?」「今頃、どちらへ、お越しです?」と声をかけてきた。

益田  仕様がないから「いえ、ちょっと休みで、国へ帰りますが、これは内緒にしていて下さい」と一円チップをやった。そのボーイさんは、ファンで、毎週浅草へ見に来ていたと云うんですが後で考えたら、なにもチップをやるテはないやと思った。国へ帰るのに、内緒もなにもないわけだが、それだけ緊張していたんだな。

「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号

さらに、函館に着いてからも安心できない。

益田  或日、或るバアへ入ったら、そこの人が、レコードに入っている歌詞のカットに使っている僕の写真を持ってきて、「そっくりだ」と云ってきかないんだ。そっくりも、そっくり、当人だから、弱っちゃってね、「その人とは、ちがうんだ」と頑張ったが、町中にぶら下っている、レコードのポスタアには、参ったなア。

「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号

個性的な風貌と知名度が、このときばかりは仇になった。
その後益田は一度上京したのち、坊屋の待つ京都へ向かい、4月8日夜には無事再会した。
4月12日の都新聞には、新興キネマの撮影スタジオを訪れた坊屋と益田が、市川右太衛門と一緒に写った写真が出ている。

都新聞/1939年4月12日

【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『吉本興業の正体』増田晶文/草思社/2007
『松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち』中川右介/光文社/2018
「あれやこれ・脱退騒ぎの真相」/『モダン日本』1939年6月号
「あきれたぼういず朗らかに語る」/『スタア』1939年7月上旬号/スタア社
「朝日新聞」/朝日新聞社
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社


(10/15UP)一方、芝と川田は…

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