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私の昭和歌謡52 戦争を知らない子供たち 1970

戦争を知らない子供も今はもう戦争知らない老人の群れ


これは北山修が詩を書いて、加藤和彦に曲をつけてもらおうと渡して断られた歌。結局、杉田二郎が曲をつけて、大阪万博ホールのコンサートで歌って、それから杉田二郎がずっと歌い続けている。

北山修77歳。杉田二郎76歳。


🎵 若すぎるからと 許されないなら
髪も毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ 🎵

こんな歌詞をフォークのメロディーに乗せて発表した二人は、長生きだ。

加藤和彦も死んだ。はしだのりひこも死んだ。

ギターを弾きながら
🎵 僕らの名前を覚えてほしい 🎵
と歌った「戦争を知らない子供たち」はもうすぐ80歳になる。


私は中学生。こういうふわっとした反戦歌が嫌いだった。

戦った人間は語らない。悔しい気持ちを胸に秘めて帰郷し、人生を終えていった。じゃあ、この戦争を知らない子供たち世代は、何を残したんだろう?

団塊と私。
1964年。私も彼らも、東京五輪を観た。
1970年。私は三島に戦慄し、彼らはバカにした。
1980年。私は学生、彼らは社会人。
1990年。ポール・マッカートニーのライブへは仲良く肩を並べた。
2000年。ハリーポッターの本に興味を示す私。気にもしない彼ら。
2010年。私は働き盛り。彼らはさっさと定年、還暦。
2020年。私も定年。でも働き続ける。彼らは町内会。

私だって、若くない。でも、団塊は嫌いだ。それが、この曲を聴いて、確実になった。

当時は子供だから、10歳ぐらい上の彼らは「腰抜けだ」ぐらいの気持ちだった。でも、私の人生で、この10歳ぐらい上の彼らが、常に周囲にうじゃうじゃいたのだ。参った。抗った。私は団塊の仲間じゃないってww

中学のとき、音楽の先生が授業で言った。
「山田耕作は日本語のイントネーションをとても大切にした。演歌も同じ。でもフォークは違うな。「せ↗︎んそうが」を「せ↘︎んそうが」と作曲している。」

なるほど。この頃からイントネーションは無視されるようになってきたんだ。しばりが外されたと思えば、メロディーの可能性は高まった。

でも、日本人は歌詞を味わうように歌を歌う。

「歌詞の、ここの部分で涙が出ちゃう」なんてコメントを、You Tubeでも見かける。メロディーと歌詞がぴったり合うのが気持ちがいい言語なんだ。

2番も「か↘︎みのけが」3番も「あ↘︎おぞらが」
杉田さんには悪いけど、この歌を私が積極的に歌わなかった理由は、もしかしてここにあるのかもしれない。

北山さんには悪いけど、この歌詞を加藤和彦が拒否したのがわかる。

青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ

バカにしないでよ〜と応戦。

私たちは決してあの戦争を忘れてはいけない。
日本人なら、終戦というのに原爆を投下され、空襲を受け、本土の民間人の多くを殺され、しかも条約を破ってソ連が侵攻してきた、あの屈辱の戦争の結末を、忘れてはいけない。

私は昭和歌謡を愛している。でも、この曲はだんだん嫌いになって、今では怒りが込み上げてくる曲になってしまった。

こんな歯に衣着せた言い回しの曲でも、流行歌に政治的な要素は難しいことだ、と思う。


【参考資料】



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