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私の昭和歌謡109 想い出の渚 1966

才能のひとつの終わり人はみな死んで一つの形が残る


加瀬邦彦という才能。
彼はなんと慶應ボーイなんだ。しかも法学部だって。

初めてのバンド、トップビーツのことは知らない。
ホリプロに所属して、キャノンボールを結成。かまやつひろしがいた。
だからか、スパイダースに加入。
その後寺内タケシに誘われて、ブルージーンズに加入。

ところが。
1966年ビートルズが来日した。
前座はブルージーンズ。すごいじゃないか。

でも、加瀬邦彦は、前座バンドが演奏後警備のために楽屋を出ることができないと聞いて、脱退したんだ。

ビートルズを客席で見たいために、ビートルズの前座を蹴ったww

ホリプロは加瀬にはそれなりの才能があると思ったのか、給料を払い続けた。なんにもしないで給料もらうのも申し訳ないので、慶應つながりの加山雄三に名付けてもらったワイルドワンズを結成する。

で、渡辺プロダクションへ移る。
12弦ギターを弾きながらワイルドワンズで活躍する。

この頃、私は知った。
それが「想い出の渚」だ。

この歌がすぐ覚えて歌えたのは、
日本の有節歌曲、つまり唱歌の進行だからだ。
A(a a') B (b a')なんだ。

でも、気になったのが、そのBのa'の最後。
🎵忘れはしない いつまでも🎵 の「いつまでも」の不思議なメロディー。

当時ギターを弾き始めたばかりで、この曲が好きなのは、Fがないことだった。でも、この「いつまでも」がG#7とある。

私の耳には、「#レ #レ #レ レド」とは聞こえない。
「bミ bミ bミ   レド」だった。

それも、ピアノとギターの弾き語りをするときの、理論も知らない私が、独学で音楽を知るきっかけになった。

このG#7 は( 私にとってのAb7)しつれんの予感を漂わせるには、ぴったりの和音だし、歌詞にあったメロディーだった。

さて、加瀬さんは、ワイルドワンズを解散してからがすごい。

ここからが1番、私がよく知る加瀬さんだ。
全盛期の沢田研二の曲をプロデュースする、大したヤツとなっていた。

ワイルドワンズの「愛するアニタ」風の曲作りは、沢田研二の「許されない愛」や「危険な二人」につながるところがある。

ここまでが私が聞いていた加瀬さんの曲。

加瀬邦彦は1994年に食道癌の手術をした。しばらくして活動は続けていたが、2014年に下咽頭癌を発症し、2015年に、自宅で呼吸用のチューブが塞がれた状態で亡くなっていた。自殺。74歳。


彼の才能が、その時代=ビートルズの時代とともに、よく表されている歌がある。

「ユア・ベイビー」これはブルージーンズで1965年に発表して、ワイルドワンズになった1966年に新しいメンバーで歌っている。

2つのレコードの面白さは、ブルージーンズのがはるかに上手。
ワイルドワンズは目も当てられないほど。でも、どっかのアマチュアのデモテープみたいで好きだ。




【参考資料】

1965年 寺内タケシとブルージーンズ

1966年 ワイルドワンズのユアベイビー

1966年 想い出の渚


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