【稽古日誌】カスケードとカテーテル #10


2022.4.20(水)
今日は座った状態での会話の稽古でした。
昨日まで、何日か連続して立ち稽古でシーンを作ることに時間を使っていたので、座り稽古は久しぶりでした。座り稽古の重点は、「相手とコミュニケーションを取る」「会話を成立させる」「役ではなく、しっかり自分自身で相手と関係する」ことの再認識です。
今日のアドバイスはすごく大切な視座がふんだんにありました。次のアドバイスを入り口に、何がどう大切なのか、解説していきたいと思います。

<ちゃんと即興になっているかは「相手」を見て検討する 「自分どうかな」「この会話どうだったかな」というチェックを常に怠らない>

ここで「即興」は、「しっかり相手と関係が取れている状態」のニュアンスです。このアドバイスのポイントは、演技の自己チェックを「相手を見・聴くことで行う」ことです。
即興の精度、「きちんとそこに関係が成り立っているか」の精度を上げていくためには毎回のチェック、その上のトライ&エラーが必要になります。
では、その「精度」の基準はどこにあるのか。演出のもこさんの言葉を拾えば、「相手と「喋ったなあ」「話したなあ」という実感」、「1回きりの人生を生きている」実感です。もこさんやCOoMOoNOの思想と非常に強いつながりのある深い言葉ですが、「1回きりの人生を生きている」という素直な、虚飾のない生活実感を基準にして(それを頭でっかちに目指すと違ってきてしまいますが)、会話・関係の精度を上げていく。
つまり、それは「日常」を舞台の上で再現することになるわけですが、では日常、私たちがどのように相手と会話・関係、しているか。
人は普段、相手の言葉や素振りからさまざまな情報を読み取り解釈し、相手にかける言葉を取捨選択しています。かけた言葉や自分の態度が相手に読み取られ、また言葉が相手からかけられて、と繰り返すことで会話は会話になります。したがって、「日常」を範としたとき、会話は「自分が相手に言葉をしっかりかけることと」ともに、「相手を見・聴くこと」も非常に重要です。
そのように正しく関係しようとしたとき、「演じよう」としてしまうと、言い換えれば「キャラクターを表現しよう」とすると、自他の意識のバランスが自分だけにかたより、関係することができません。
「役」は、「舞台上でリアルに相手と関係している自分」を、「相手の演者が戯曲で指定された名前で呼び、関係する」ことで、観客に「役」として見えます 。舞台上でやっていることは日常とおなじです。ちなみに、役作りなどの工夫・表現は、俳優のけんとさん(畑中研人)曰く「遊びでやる」(これができる心の余裕ってすごいな思いますが……)。
しかし、その「関係する」(=「ただ生きる」)ということが至難の業です。「観客の眼がある」という意識はどうしても自意識を加速させます。その自意識は「1回きりの人生を生きている実感」という剥き出しの状態を避けたがるので、もこさん曰く「虚構の引力」=「演じよう」という意識の中にこもりはじめます。すると、自他意識のバランスが崩れ、関係できなくなってしまう。
そのため、「普段の私(1回きりの人生を生きている日常の“私”)にめちゃめちゃしがみつく」「「私はこういう人だから」っていう開き直り、諦め」「キャンバスに直線を引くような」意識もまた必要になります。
そこで技術的には、「相手を見・聴くこと」(相手への意識)とともに、「言葉を肚にためておく」(“適切な”自分への意識)ことが必要です。みぞおち以上まで来た言葉は出してしまわないと、生理的に気持ちが悪い。
しかしまたここで難しいのは、台本という流れがあらかじめ決まっているということです。そのため、上述の生理感覚の流れと台本の流れを擦り合わせておく必要がある。
しばらく前の稽古の合間、今回出演するまつむろさん(松室隆教)が「一番最後の台詞、スッと言いたいんだよね」と言っていたのに対し、もこさんが「一流の役者の悩みを抱えてるね」と言っていたのは、台本の流れと演者としての自他意識の流れを一致するのが非常に難しいから、それは第一線の俳優でも大変だ、という意味合いだったのでしょう。

以前の稽古日誌でも書きましたが、舞台にいるときの意識の持ち方として、けんとさんは「からっぽ」と言い、俳優のゆーみんさん(松本優美)は「何もしない」と言っていました。そこに居つづけるのは、本当に難しい。才能や経験や努力もそうですし、もこさんの言葉で言えば「1回きりの人生を生きている実感」をどこまで大切に、わがままに、あるがままに求め続けられるかが大事なのかもしれません。

演じるという行為は非常に奥が深い。

演出助手 寺原航平


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