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第3回THE NEW COOL NOTER賞始まる世界部門~10/21講評

第3回THE NEW COOL NOTER賞「始まる世界」部門へご参加いただいている皆様。

11月部門、ただいま募集しております。
自己紹介や、自己PR、よいと思うものの宣伝などが対象です。どうぞ、ふるってご応募ください!

10月の始まる世界部門については、いよいよ月末の授賞発表が近づいてまいりました。本日も3つの応募記事へ、審査委員それぞれからの気合のこもった講評を掲載させていただきます。
ぜひ、楽しんでいってください。

(本日の講評者)

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<講評(みこザウルス)>

体育大学出身で、もちろん運動神経は抜群だったし、
スポーツトレーナーの資格もあり、
普通の人よりも体の仕組みの知識がある。

そんな旦那さまが、自分の免疫が、自分の体を攻撃してしまって筋肉が壊れている状態が続く病気にかかってしまった。

みこちゃんはこれを読んだときに、ベートーヴェンのことを思い出しました。あれ程の音楽の天才がよりによって耳が聞こえなくなっちゃう。小学校の時だったかな、そのことを知って初めてなんというか、人生の理不尽さと言うか怖さみたいなものを感じました。

しばらく小学生の小さな頭で苦悶していたのですが、たまたま夜のテレビドラマで、医者ががんに罹っちゃって医者であるがゆえに自分の寿命がどんどん減っていくのが手にとるように分かる、というのを見ました。立て続けだったもんですから、みこちゃんは激しく苦悩しました。

きっと、言葉では表せないほどの無念と苦しさがぴっぴ_アラサー介護さんの旦那様にはあったと思います。

「もう死にたい」とつぶやいた。
わたしはかける言葉がなくて一緒にわんわん泣いた。

いかにご夫婦という間柄でも、こういうときは言葉は出てこないものだと想像します。

「死ぬなら、一緒に死のうね」と言って、2人でわんわん泣いた。
それが正解かどうか、わからない。
たぶん、日本の倫理や、日本の教育的にはNGだろう。

家族とは、「倫理」や「教育」ではどうにもできないつらさの、最後の拠り所なんだと思います。

だから、みこちゃんはこの作品の次の部分に涙腺が緩みそうになりました。

その日、はじめて、会社をずる休みした。

それにつられたかのように旦那様も精神的にも肉体的にも辛いリハビリをサボった。

その日は、彼はリハビリもさぼって
わたしは仕事をさぼって
ひたすらにおいしいものを食べて、昼寝して、ゴロゴロした。

一緒に、本当はやってはいけないことを夫婦でやる。
単純に、いいなあ、こういうの……と思いました。
いいなあ、というのはなんだか無責任みたいですが、そうではなくて人間なにか限界を超えてしまったときにはすがるものは「倫理」や教えられてきた「教育」じゃなくて、一緒にこっそりそれを破ることのできる、破ってくれる人の存在なんだと思えたのです。

もし、ぴっぴ_アラサー介護さんがこう言ったらどうだったでしょうか。

「私もあなたをおいて勤めに行くのはついらいけど、行かないといけない。だからあなたも頑張って」

きっと、旦那様はそれにうなずくしかないと思います。
これはしんどい。

私もこれほど頑張っている。だからあなたも頑張ってという論理です。
これは、なんだかよくない自己犠牲のような気がします。
よくない、というのは誰も幸せにしない自己犠牲ではないかという意味です。

いっしょにさぼったこと。
一緒に反社会的なことをしたこと。
そのことが、きっと旦那様の心を和ませたと思います。

「わたしのために生きてほしい」と言えるような「わたし」になりたい。
オットにとって、生きる希望になりたい。

みこちゃんには、ぴっぴ_アラサー介護さんはすでにそうなのではないかなと思えました。
正しいことをすることよりも、一緒に悪いことをしてくれる人。
自分がリハビリサボることを許してくれる人。

ベートーヴェンにもドラマのお医者様にもそういう人が必要だったのではないかと思いました。
音楽家であることをやめてもいいんだよ、医者であることをやめてもいいんだよ。
実際にやめるかどうかは分かりません。
でも、そういう人がいたら逆に吹っ切れて、自分の天職を全うするのかもしれませんよね。

ベートーヴェンやお医者様にそういう人がいたかどうかは知りません。

でもぴっぴ_アラサー介護さんの旦那様にはぴっぴ_アラサー介護さんがいる。
旦那様はもうすでに、ぴっぴ_アラサー介護さんがいるから、生きていこうと思っているのじゃないかなと思いました。

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<講評(Norikoさん)>

唯一無二の存在である自分を
どうして嫌いになるのか
Sazanamiさんの作品を読みながら
考えていました.

自分と言う人間を意識し始めて
もうその頃から自分が好きでは無かった様な
嫌いから記憶の始まりだった事を
Sazanamiさんの
ある人との出会いまでの日々を読みながら思い返していました。


きっと直球な方、
そう感じます。
とてもピュアでガラス細工のように繊細。

ガラスは熱せられ、形を変えていきます。
Sazanamiさんも誰かに指摘されるたび
『これじゃいけない』と
自分の形を変える努力をされて来ました.
でもそれはご本人が望む本当の形では無かった。
誰かに押し付けられた
誰かにとって都合の良い形であり
誰かが良いとする価値観のガラス。

一生懸命に形を変えてみても
誰かの良しとするガラスが
パリンと割れてしまう事の連続に
疲れてしまったSazanamiさんを
本来の吹き手はその人じゃないよと
教えてくれたのは、優しい眼差しでした。

言葉でもなく眼差しと言う事に
私はSazanamiさん自身の本来持つ灯りが
反応したのではないかと思いました。

私は今まで生きてきた人生の中でも、
今の職場でも牧師さんと深い関わりがあります。
クリスチャンではありませんが
何故かご縁があるのです。

聖書を学べば、私も変わるだろうかと
読んで見た事も一度や二度ではありません。

やはりあの眼差しは、聖書を学んだから、
神を信じているから
そうでは無い様に思います。
その人本来が持つ優しさや慈悲が
聖書を読み学ぶことで
多くの人と出会い
葛藤や悩みを分かち合ううちに
その眼差しになったのではないかと
私は勝手に推測するのです.


出会うべくして出会った牧師さんに
Sazanamiさんは
本来の吹き手は自分自身であり
熱せられ、形を変えていくガラスは
自分自身で成形するものだと
気が付かれるのです。
どれもダメな自分では無かった。
本当の自分はそのままで良かったんだと。


わがままで頑固なのは、本当は真の強さが自分がはあったから。
気が利かなくて言葉が足りないのは、相手を想い言葉ではなく態度で示せたから。
人と目を合わせることが出来ないのは、あなたに敵意は無いですよと言う優しい性格を持ち合わせていたから。

欠点だらけの自分が、どこか愛おしく思えてきて、目につく短所も、かわいく思えた。


Sazanamiさんは、こう書かれています。

私はSazanamiさんの冒頭の文を明るい場所から読んでみましたよ。
それが上の太字です。
Sazanamiさん、暗い場所から明るい場所ってよく見えますよね。
でも逆に暗い場所から明るい場所を見た時
目が慣れるまでは眩しくて見えない。

私にはSazanamiさんは
本当は眩しいほどの灯りが灯っている人だったんじゃないかって思うんです。
ガヤガヤ言う人たちは
眩しくて目が慣れるまでの時間を掛けずに
ぼんやりとしたものだけを見て
表面だけを攫って見ていたのでしょう。
だって悔しいことに
それは素晴らしいガラスの様に
色とりどりで
透き通っていて
誰もが羨ましいものなのですから。

本当な事は
色眼鏡では見えないものです。
牧師さんの眼差しがそうだったように
Sazanamiさんの眼差しも
本来持っていらっしゃった性格と
積み重ねられた葛藤と努力で
変わられたのでは無いでしょうか。

ずっとモノクロだった景色が、なんてことない「おひとりさま」の日常が、カラフルに色づいていった。


人との出逢いって
何十年という時をひっくり返す位の影響があるんだなと言うことを改めて感じました.

ガラスを成形する吹き手はご自身だと
気が付かれた今、
これからがSazanamiさんの人生第2章の様な気がします.

私もこの作品に出逢えましたことを
幸せに思います。
ご応募ありがとうございました😊

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<講評(一奥)>

何があっても、自分は自分だ、と言い切ることができる一つの自己受容が大切なことであるとも見えます。
そして、そんな自分を誰かに説明するにあたり――誰かに「説明された」ものとしての、専門的な何がしかの名称にこだわらないことに、一つの覚悟を感じます。

それは誰かから「説明された」ものであって、自分を表す正確なものではないのかもしれない――そう思ったのならば、それは使わない方がいい。
それを自分でもよく理解できていないのに、「どうも自分はそういうものらしい」と、もし誰かにそれを持ち出すのならば、そこには、自分で自分の世界を開くことも、そして誰かの世界の扉をたたくことも広がらないだろうと考えます。

もちろん、そういうものを使わないからといって、誰かと世界をつなぐことができる保証はないけれど。
しかし、最初からその扉を、自分自身にすら閉ざすような行為よりは、まだ、一つ、勇気ある姿勢であるように見える。
いささかの悲壮さを伴うような。

それでも、己の在り方を見つめる、やどかりうさぎさんの姿勢に、一奥は我が事にように感じ入ります。

「それ」に、自分自身でも納得のできる、しっくりくる形での「言葉」を与えることができる日がくること、その「言葉を与えようとする」ことそのものが、世界を叩くものであること。
そこに、開かれるものがあると信じます。

このたびは、ご参加いただき、まことにありがとうございました。

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*講評は分担制としているため、必ずしも応募順に講評結果が発表されるわけではございません。よろしくお願いいたします。

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応募作品はこちらのマガジンに収録されます。
 他の参加者様の作品もお読みいただき、ぜひ、当コンテストを通して新しく知り合い、また仲良くなった、との声をお聞かせください! 皆様の縁がつながるコンテストでありたく思います。

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