見出し画像

文芸部の部長を見ていたせいで、「自分の趣味が小説です」と言えなくなってしまった

部長は趣味を聞かれると、映画鑑賞か料理と答えていた。部長にとって小説は、たぶん食事や呼吸と同じカテゴリーだったからだと思う。

部長は放課後になるとすぐに部室に行き、図書館から借りた小説を開き、あまり厚くなければ一時間ほどで読み終え、それからノートPCを開くと、今度は下校のベルがなるまで休みなく小説を書いていた。「家に帰ってからも同じことを繰り返しているはずだ」という推測に部員全員がベットし、アイスを奢るその賭けは成立しなかった。

休みの日は部長は、祖父の古本屋でバイトをし、客が来ない間はずっと店の古本を読み、古本を読んで得たお小遣いで新刊を買っているそうだった。
(読み終わった本を店に売っていたのかは分からない)

三年の先輩方に聞くところによれば、先代の部長も同じように小説を呼吸とする人だったらしく、部長が「部長」なのは、もはや文芸部の伝統らしい。

三年の秋にもなって、部長が受験勉強に取り組んでいる様子はなかった。部長は、一時限を三つに区切り、復習・自習・予習にあて、それで受験勉強は十分と考えているようだった。
そんな姿勢で大丈夫なのか私は心配になっていたけれど、部長は、文学部に行けて学費が安くて小説を読み書きする生活を送れれば、あとはどうでも良いようで、「授業時間のうちはまじめに勉強する」というのは、むしろ部長にしてみれば、将来をまじめに考えた末の、最大限の譲歩であり最善の選択のようだった。

どっちにしろ、部長は国語や英語を勉強する必要がなかったし――英語の物語を読んで聴くのはもちろん「趣味」として英語の小説も書いていたので――他の科目に関しても、べらぼうに賢いほうだった。私はむしろ、部長より自分の成績の方を心配すべきだった。

小説を読む力も書く力も、部長のみが別格なのは誰の目にも明らかだった。他の部員はみな、他に入りたい文化部も無いから、「部室に入り浸って小説か漫画を読んでればよい」文芸部に入っているにすぎなかった。
部長が他の部員の原稿を読む時は、プロの小説を読むときと違って笑うことはなくて、それが私はとても怖かった。
それでも皆で講評しあう時間の際は、部長はにこにこして褒める一方だったし(部長はどんな文章でも、その美点を見出す力を――あるいは「書き手が美点と思ってるであろうこと」を見抜く力を持っていた)、部長が厳しいことを言わないのだから、誰も率直な感想や批判や指摘を口にできず、まったりと褒めあい馴れ合うだけで講評は終わった。

自分の原稿を部長が読むとき、私はいつも、部長の口元を注意深く観察したものだった。ほんの少し口角が上がった、と喜び、すぐに、私の願望による錯覚だったと気づく。部長はいつも、他の部員の原稿と同様、「私が美点と思っているところ」を見抜いて褒めてくれ、そして、他の部員の原稿と同様、改善点や批判は口にしなかった。
真剣に頼めば、本音の講評をくれたのかもしれない。しかし、その勇気が湧くことは終ぞなかった。仮初としても部長の称賛を胸に大事に抱えておきたかった――そう思ってしまう時点で、私は部長が駆け抜ける道の、スタートラインにも立てていなかったのだろう。

部長がなにかの新人賞で受賞したという話は聞かなかったけれど、単に時間の問題か、あるいは既にデビューしているのではないか、と部の皆が密かに口にしていた。身内びいきと片付けてしまうのは簡単だけれど、部長の小説を読んでそう思わないのは難しい。

部長は文芸部の部室を使うためだけに文芸部に所属していた。部長が「部長」に就任したのも、部長にリーダーシップがあるからでも仕切りたがりだからでもなく、同期の皆が部長をさしおいて「文芸部の部長」の肩書きを得ることを拒否したからだった。
だから、部誌をより良いものにしようとか、部員を自分と同じ水準に引き上げようとする意志は、部長に特になかったと思う。もしかしたら入部当時は、切磋琢磨を期待していたのかもしれないけれど、早々に諦め、無駄に空回りして空気をひりつかせるより、「居心地の良いぬるま湯」を維持するほうが良いと思ったに違いない。
部長は決して社交的でなくとも、最低限の社交を小説から学んでいた。イヤフォンをして小説の読み書きに没頭するとき以外の時間は(つまり、部室に来たときと帰るときの合計五分ほどだ)、同期や後輩と和やかに会話していた。いつも、小説以外の会話をしていたように思う。

そして部長の代の卒業式の日が来た。式を終えた三年生が思い思いに泣いたり笑ったり、後輩達が三年生を取り囲んでいたけれど、特に思い入れのある先輩もいなかったから、文芸部の三年生達を見つけて形式的な挨拶を述べた後は、早々に校舎に引き込んで、そのままなんとなく部室に足を運んだ。

いや、なんとなくではなかった。扉を開けると、はたして、私の期待通り、部長はそこにいた。

「卒業おめでとうございます」

今日何度か口にした台詞だったけれど、たぶん、これが一番本心からの台詞だ。

「『部長』もこれで引退か」

部長はびくりと振り返ると、しばらく私の顔を見てから言った。憑き物が落ちたかのように、部長はさっぱりした表情になる。部長にとって部員はすべて同じ、ではなく、誰より熱心に活動していた私の重みは少しだけ違っていたと思うのは、単に自分の願望だろうか。

「文芸部の部長はとっくに引退していたじゃないですか」

そう言いつつも、私自身、いまだ「部長」としての自覚はなかった。私にとっての「部長」はいつまでも部長だったから。

「いや、そうじゃなくて」

部長が私の肩に手を置く。存在しない誰かの記憶が頭に流れ込み、私はよろめく。

「『部長』は二年ごとに引き継がれる。昔死んだ生徒の幽霊なのかなんなのかまるで分からないが、とにかく、一年の三月以降に書いた原稿はぜんぶ自分じゃなくて『部長』の書いたもの――」

もう「先代部長」の言葉は耳に入らなかった。私は席に座ると、PCの電源を入れてテキストエディタを立ちあげ、頭の声のささやくまま、キーを叩きはじめた。

「自分の趣味が小説です」と言えなくなってしまった。私にとって小説は、たぶん食事や呼吸と同じカテゴリーだったからだと思う――