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愛(Love)とIR

How love orders: an engagement with disciplinary International Relations

面白そうだった論文を紹介します。
TwitterでEuropean Journal of International Relations (EJIR)の2024年号に掲載されている論文を紹介するツイートが流れてきました。その中でも、Liane Hartnett(2024)の「How love orders: an engagement with disciplinary International Relations」(EJIR 30(1) pp.203-226)が面白そうだったので読んでみました。政治心理学的なアプローチかなと思っていたら、国際関係論の古典を愛という概念を通じて読み解いていく論文でした。以下内容の要約です。

愛と秩序

愛は国際秩序の構想に影響を与えてきた。アルフレッド・ジマーン(Alfred Zimmern)は、ヘーゲルの家族愛の概念を用いて、コモンウェルスや国際連盟を構想した。リアリストとして知られるラインホルド・二ーバー(Reinhold Niebuhr)は、アウグスティヌスの無償の愛の概念を用いて、米国の第二次世界大戦への関与を正当化した。高名なリアリストであるハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau)は、ニーチェの欲望としての愛を用いて、核時代における倫理を説いた。

本論文では、理論化されてこなかった愛を用いて、愛と秩序の理論的関係を明らかにし、国際秩序の構想の歴史的なインプリケーションを示し、最後に愛は権力を覆い隠すこともあると論じる。

愛は共同体を「構成する」(Love 'constitutes' community)

愛は、共同体を構成する。われわれ意識をつくりだすことで複数の世界を生み出し、愛情の接着剤(affective glue)として集団のアイデンティティを形成する。このロジックはヘーゲルの家族愛の議論に根差すが、国際関係においてはアルフレッド・ジマーンの国際秩序の構想にあらわれている。

ヘーゲルは、倫理的な共同体は家族愛によって形成されると論じた。家族愛は個人性と関係性の両面性を具している。家族を愛するということは、個人的な感情だが、それは家族という関係性の中においてのみ成立するからだ。家族愛は忠誠と犠牲を生成し、それらは家族と市民社会の基礎となる。

ジマーンは、コモンウェルスを構想するにあたって、共同体の中の人々が愛やきょうだい性(brotherhood)によって支えられるべきだと論じた。共同体は家族愛によって結び付けられる。そこでは、同質化がすすめられるのではなく、多元的な複数の民族が家族愛によって共同体を構成する。この意味で、ジマーンは反人種主義者だ。一方、この共同体は侵略によって形成される。共同体は、自発的に形成されるわけではなく、植民地主義的で、ときにジェノサイド的な暴力によってもたらされる。

ジマーンは国際主義者で反人種主義者であると同時に、帝国主義者であった。愛は共同体を構成するものの、それに伴う暴力は不可視的で、日常的である。次節で説明する愛の論理は、秩序を維持する暴力に目を伏せるわけではない。愛は暴力を正当化する。

愛は強制を「正当化する」(Love 'legitimates' coercion)

愛は、価値を与え、行動指針となる。愛が価値を与えたものは、それを防衛する価値を有する。暴力や強制は正当化される。アウグスティヌスは、愛には利己的な愛と自己犠牲的な愛(アガペー)があると論じる。神の国は前者によって、地上の国は後者によって規定される。神学者であり、かつIRではリアリストとして知られるラインホルド・ニーバーは、アウグスティヌスの論理を用いながら、国際関係を論じた。

二ーバーは、愛はすべての倫理の最終目的であるべきだとする。ただし、現実世界で自己犠牲的な愛を実践することは、弱者や同意しないものに対する暴力でさえ正当化してしまう。そのため二ーバーは、自己犠牲の代わりに利己性も含有する正義を選択した。暴力が遍在する現実社会では、秩序は強制を必要とする。アガペーのためではなく、正義を実現する秩序を維持するためは強制が用いられる。アガペーは目的ではなく、正義、秩序、強制の動機として機能する。ここにおいて、二ーバーにとっての国際秩序は二つの国の混合体として構想される。

二ーバーは正戦論の伝統の中で、現実社会における強制の不可避性を認めた。加えて、強制の意志をアガペーの論理によって説明した。愛は、理想的主義的な非暴力を象徴するわけではなく、秩序と正義を実現するためのルールを示す。そしてそのルールは、強制や暴力に訴えかける責任を伴うのだ。

二ーバーは強制の不可避性を許容した。しかし、愛が関係的なものではなく、自律的なものであるとしたら、権力による支配に脆弱となってしまいうる。次節では、この結論を一旦脇に置き、愛と権力が本質的に結びついていると考える。

愛は「権力を与え、奪う」(Love '(dis)empower’)

愛と権力は本質的に結びついている。ニーチェは、変わることなく永遠に繰り返されるこの世界をこの世界として受け入れる運命愛を論じ、その中でも支配する願望を持つという権力への意志があるとした。ハンス・モーゲンソーは、国際関係におけるパワーを論じた理論家であるが、ニーチェの愛の論理が多大な影響を与えている。

モーゲンソーによれば、人間の本質は孤独にある。しかし、人間は自己の運命を一人で実現することはできないと認識し、愛と権力を希求するようになる。モーゲンソーは愛をエーロス、あるいは渇望と捉える。そして愛と権力は相互に補完し合う。愛は権力との全体性を求める中で、強制と集合の両面性をもつ。他者の行動や機会を統御しようともするし、他者と協調しようともする。

存在論的に客体を必要とするとき、愛はコミュニティを維持する同意を生成する。アイデアや理想、制度は、自発的な同意なしには維持できないため、愛は共同体にとって不可欠となる。

モーゲンソーは愛と権力の両面性を認識した。核兵器が登場し、終末が絶えず想像されるようになったことで、モーゲンソーは世界共同体の必要性を訴えかけるようになった。モーゲンソーにとって、政治とは権力という手段を用いて倫理的目的を実現するものである。愛の倫理なしに核時代の世界を維持することはできないと考え、モーゲンソーは世界共同体の必要性を論じたのである。

愛をつくる、秩序をつくる(Making love; making order)

愛は意味や目的を与えるという意味で国際関係を秩序づける。集団を束ねる愛情の接着剤として機能し、行動を可能にし制約する感情を枠づけ、権力が作用するために不可欠な役割を果たしている。三つの理念型は、現実には相互補完的に機能している。また、IRは、国際秩序が構想するにあたって、愛を用いて検討してきたことも明らかになった。

一方で、愛は権力を覆い隠す機能をしばしば果たすことも明らかにした。三人の論者は、究極的には現状へコミットしている。その現状は、人種や性別に基礎づけられてもいるのだ。愛は混乱を縛り、宥め、制限するという潜在的な力を持っているものの、同時に階層的な秩序に従事するのである。

しかしながら、愛が帝国や戦争、支配の暴力的な機能のために、感情的で準コスモポリタンな言説として用いられるのならば、愛が包含する多様な意味を用いて、異なる秩序像を描くこともまた、可能となるかもしれない。

感想

がっつり政治思想系の論文でした。論文にもあるように、愛の多義性(polyvalence)がカギなのでしょうがないとも思うのですが、愛で何でも言えちゃうんじゃないという印象も受けました。Hartnettは愛をキーワードにほかにも論文を出しているようなので気になる人はぜひ。
EJIRは、質的・量的のどちらの研究も載せているイメージだったのですが、政治思想系の論文もあるとは驚き。アメリカのIRとの違いが見てとれます。





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