note二週目の気づき
実を言うと私は過去に一度、別名義でnoteに記事を書いていた。ただどうしても続けられなくなって退会した。原因は単なるネタ切れではない。今回はその話を掘り下げていく。
私が最初にnoteに登録したのは、記憶が正しければ2021年。感染症流行期で、「ていねいな暮らし」や「おうち時間」の記事があふれていたころだ。この類の記事はライフハックというのか、有益な情報を伝える内容が多かったと記憶している。それにならってなにか有益な記事を書かなければと、当時の私は思い込んでいた。ほとんど強迫観念だった。
最初こそ「パーソナルカラーを利用したマスクの選び方」や、「私がファッション迷子を脱出した方法」などの記事を書けていた。だがそれは長続きしなかった。普通に生活していて、他人にとっても有益な情報などそんなに簡単に得られない、得られても誰かがすでに発信している。これがひとつ目の理由だが、もうひとつそれよりも大きな理由があった。それは、無駄なものごとに価値を見出す私の性質である。
なにが言いたいのかわからないと思うので、詳しく解説する。生命を維持するのに必要な物資と環境があれば、人間は確かに肉体的には生きていける。でも精神面はどうか。音楽や本などの娯楽が一切ない生活、それは楽しくないだろう。つまり人間の生活を豊かにするのは、必要最低限の生活に対して無駄とされるものごとなのではないか。とまあ、こんなことを私は考えている。ちなみに感染症流行期の初期にやたらと「不要不急」という言葉が叫ばれたが、「なくても生きていけるもの」を完全に排除してしまったら、人間の生活の質、いわゆるQOLはガクンと落ちてしまうのではないかと、私は考えていた。だからこそあの時期の人々は、制約のある中でできる楽しみを探し求めていたのではないだろうか。
以前いつnoteを退会したのか、私はもう覚えていない。でもまた文章を書きたくなって、私は水津希理として戻ってきた。note二週目に突入して、ひとつだけ決めている約束事がある。「他人の役に立つかどうかわからなくても、書きたいテーマがあれば書く」、たったこれだけだ。そうすると、ちょっと書いてみようかなと思える日が増えてきた。現実の生活で時間をとれるようになったせいもあるだろうが、そればかりが理由ではないだろう。
私が役に立たないと思っていても、誰かにとっては気づきのきっかけになる。その可能性は皆無ではないのだ。