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服従させる日本の悪癖 従順さのどこがいけなのか 将基面貴巳

昨年末、能勢の農園を辞めることになりました。
やりたい活動が出来ないだけでなく、色々と邪魔が入り、一緒に活動するメンバーにも影響してきたためです。

何で人を押さえつけることを言ってくるんだ?
この1年、ずっと感じていた疑問でした。
また振り返りと一緒にこの辺りは詳しく紹介していきたいと思います。
この紐解きこそが、これからの一歩に必要なことだと思われます。

昨年、これ以上農活動を続けられないな、と感じた時に出会ったのが、
ニュージーランドのオタゴ大学で政治歴史学を教えておられる将基面貴巳さんの「従順さのどこがいけないのか」。

なぜ人は服従をするのだろうか?

かつてのナチスや「ある権威や権力に服従する限り、自分が安心できるから」

責任回避としての服従

「服従することは、自分が責任を取らなくても良いことを意味する」


自分で自分の行動を選び取っておらず、他人任せにすることが出来ます。
**が言ったから、指示されたからやりました!
最近それが当たり前のようなニュースが流れます。
その一方で絶対服従な組織社会の中で、なぜ会社を簡単に辞められるのか?
服従の相手が、組織から友達の言葉に変わったから。
自ら考えず行動しているのではなく、家族や友達に同意を求め、その同意の言葉に従って行動をした結果という話が多くあります。
(全員がそうしている訳では勿論ありません)

ちゃんと話を聞く日本人

ではなぜ、
日本では子供に、
「先生の言う事をよく聞きなさい」
でも、アメリカでは、
「先生によく質問をしなさい」というのが一般的だと指摘されています。
よく聞くは、注意深く聞く、ではなく、先生の指示に従いなさい、ということです。
子どものころから日本人は服従される環境を作っているのですね。
そして、ちゃんと人の話を聞けない子供は落伍者というレッテルを貼られます。
組織のルールに従えない人は排除されます。どんなにそのルールが間違えていたとしても。
そして、そういう落伍者を出す指導者は、指導者失格というレッテルを貼られます。
だからこそ、「従わせる」行動に移るのですね。

何に対して従順なのか?

では、他の国々の人たちは何に対して従順なのでしょう?

1.神の命令に従うから
2.自分の良心の声に従うから
3.「共通善」に従うから

宗教観、倫理観の話になるのですね。
では、なぜ日本ではそんなことになっているのだろうか?
それは、日本は「人」に対して従順である一方で、他所は「目的」に対して従順だという指摘がありました。
人の言葉に従順であるからこそ服従となってしまいます。

私達に起こったこと

能勢で農薬、化学肥料、動物堆肥を使わない農業をやっていました。
使うのは塩と落ち葉などを発酵させた堆肥です。
そして、微生物の消化酵素から出来た酵素水。
自然の循環を大切にし、共生できるようにと取り組んでいましたが、その都度都度に、
あんたらのやり方で米粒一つも出来んわ!
と悪態をつかれ続けていました。
ことあるごとに色々と嫌味を言われる始末です。
それがあまりにも続くので、一緒にやっていくメンバーのことも考えこれ以上続けられないと判断をしました。

そもそも原因がどこにあるかを振り返って思うのは、

・貸主に従わない小作人
・従わない=自己否定との勘違い
・従わせられない=自分の管理能力のなさ

この辺りが原因ではないかと推測しています。
まさにこの著書にある「服従させる日本」そのものです。

ちなみに、全てに従わなかった訳ではありません。
水の管理、土手の管理など地域で共同管理している色んなことは全て協力してきました。
そして、狩猟をすることによって、地域の米の獣害被害はほとんどありませんでした。
理不尽な言いがかりに私たちは耐えられなくなっただけです。
これって、日本の組織社会でもよくある話ですね。

この書を通じながらの振り返りでした。


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