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新たな論理の基盤「余白」~コンビビアルなマネジメント㉙

 ここまでコンビビアリストやコンビビアルな組織、社会についてお話してきましたが、わたしがお伝えしたかったことは、それらは「為る」ことや「創る」ことはできない、ということです。それはコンビビアリストやコンビビアルな組織、社会という主体の問題ではなく、コンビビアルな関係性を紡ぐことができる「自己技術」の問題だからです。個人や組織が自己技術を持ってさえすれば、すでに為っている、のです。為ろうとしなくても、創ろうとしなくても、すでにそこにあるものなのだからです。為ろうとしたり、創ろうとしても実体化できないものなのです。これは武道や茶道をはじめとする和文化に通底する考えです。近代以降の論理を基盤にすると理解しにくいかもしれませんが、これを理解することはとても大切です。

 過去、現在と未来、自分と他者(その集合体としての組織や社会)、多元的な場所を時空間を超越して統合することが求められるのです。現代はすべてが細切れになっています。しかし、それは自己技術を携えていないからそう見えているだけです。

 この自己技術を携えるには、場所は多元的にありそれぞれで唯一無二な関係性が紡がれていること、関係性のなかでしか自分は存在しえないこと、自分のなかに広大な未知の領域が拡がっていること、を知ることが前提になります。しかし、近代以降の行き過ぎた個人主義はその前提を破壊してきました。
 まず自分を中心にした一元的な場所を(無意識であっても)様々な環境に持ち込ませています。家庭でパートナーに「仕事で疲れているんだから少しは気を遣ってくれよ」という言葉を何も違和感なく発することが顕著な例です。家庭ではそのパートナーとの関係性、親子の関係性がそれぞれあるだけです。純粋にそれぞれの関係性が基軸にならなければなりません。さすがに現代ではここまで酷い状況はないと思いますが、それでも軽いものはまだたくさんあるのではないでしょうか。しかしこれは軽重の問題ではありません。前提がずれていることが問題なのです。
 また、客観的、分業、自己責任、自助…という名のもとに、自分と他者を分離して考えるようにもさせられています。自然も世界も対峙するものではありません。わたしたちは自然や世界の一部、それもとても小さい一部、でしかありません。そして他者がいないと自分は存在し得ないのです。社会が…、会社が…、というだけで、自分の日々の行動は何も変わらないということは、それらと分離していることが前提となっていることの証左になります。
 そして自分や他者(その集合体としての人間)を分かりえるものにもさせています。少なくとも分かりあえるものと期待させています。自分ですら分かりえない広大な未知の領域があるのです。分かりあえないけれど分かりあいたいを前提にしなければなりません。

 このように前提、これまでの論理の基盤、は転倒しているのです。新しい論理は、場所は多元的にありそれぞれで唯一無二な関係性が紡がれること、関係性のなかでしか自分は存在しえないこと、自分のなかに広大な未知の領域が拡がっていること、が基盤になります。
 こども達には新しい基盤のうえに未来を築いて欲しいと思います。そのためには、まず大人の論理の基盤を入れ替えることが必要なのです。

 「余白」を基盤とするのです。正確には、自分で創りだした「余白」です。

 ここで言う「余白」とは残された部分のことではありません。耕した先に自律的に手放した場所のことです。これは一所懸命書き込んできたものを消すことによって、はじめて創られます。手放す、消すという行為は、これまでの論理からすると「恐れ」に繋がりやすいものかもしれません。しかし、余白を創る、ことはとても豊かな行為です。コンビビアルなコミュニティには必ず「余白」があります。この余白があるからこそ、コンテクストが共有できるのです。まさに現代社会から抜け落ちたもの、それが「余白」です。これまでお話してきた自己技術はこの「余白」を創るためのものだと言い換えてもよいかもしれません。

 「余白」があるから、場所ごとで<1:1>の関係性が築けます。逆に言えば、「余白」がなければ(一回性の)<1:1>の関係性は築けません。マニュアルだけでは豊かな関係性は築けないのです。マニュアル化が進めば進むほど、言語化すればするほど、「余白」は消えてしまいます。「余白」がなければコンテクストは共有できません。だからといって、言葉を蔑ろにするということではありません。その反対です。だからこそ言葉が大切なのです。言葉に空気感を纏わせることが大切なのです。分かりあえないことを前提にして、丁寧に言葉を紡ぐ必要があるのです。

 「余白」は自分で創りだしていくものです。学び続ける先にしか、豊かな「余白」が創られることはありません。この学びには、質も量も必要です。しかしそれは、日々目の前のことにどれだけ向き合えるか、でしかありません。深く、深く。深さは高さと広さに繋がります。

 「余白」によって情緒がうまれ、情緒によって「余白」は空気感に満たされます。溢れだした情緒に従い、ものがたりを描き、統合していく。それがコンビビアルな生き方の根源にあるものです。本来、こども達がしてきたことです。私たちがこどもの頃にしてきたことです。

 現代社会は「余白」が抜け落ちています。だからこそ、大人が論理の基盤を入れ替えることが必要なのです。それが私たちオトナの責任です。

続く

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