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私のパリ散歩2022【前編】

前回予告していた、パリ訪問の報告です。

(以下、パリ居住の方や居住経験者の方からすれば「何をいまさら・・」みたいな記述もあると思いますが、どうかご容赦を。とにかく私のような外部者にとっては、この町のあらゆることが新鮮なのです!)

しばらく旅行ができない間にこちらの本と出会い、ふとパリの町を歩いてみたくなりました。

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その名も『パリ歴史探偵』
中世・ルネサンスのフランス文学が専門の著者による、「現在のパリの町を歩きながら昔のパリの名残を見つけよう!」という目的を持って書かれた、とっておきのパリ観光案内です。

もっとも、著者がパリ在住だったのはだいぶ前(1990年代終わり頃)とのことなので、ご自身があとがきで断っているように今では古くなった情報も多いものの、特に記事の後半でご紹介する中世の城壁の痕跡は、ほとんど本に書いてあった様子の通りでした。

何しろこの本、「廃線」の記述からはじまるのが、まず激アツなのです!

なお、私の廃線好きについては昨年のこちらの記事で書いた通りです。

ということで、パリ滞在初日の締めは市内北部にある「廃線バー」でした。
「プティト・サンチュール」と呼ばれた、戦前に旅客営業を廃止したパリ環状鉄道線のかつての駅を、バーに改装したものです。

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駅のコンコースだった広い空間が、レトロにバーに変容
若い人たちで賑わっていました。
店の中の看板が古いフォントなのを皮切りに、細かいところで内装は20世紀前半を意識しています。

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窓際の席から見下した廃線跡
草や人工物に覆われてもなお、2本の線路がはっきり分かります。

「たまらん!!」

(共感していただける方だけ、して下さい・・)

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廃線跡を眺めながら、日没の時刻までこうやって過ごすのが、なんと贅沢なことでしょうか。
このバーの「場末」感がまた良いです。

翌日は、まず「美の殿堂」ルーヴル美術館に入りました。

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午前の入場時刻を予約しておき、計5時間半近くいました。
あらかじめ見たいものを絞っておき、流すところは流して回って、この所要時間。

一度でもここを訪れた方ならお分かりでしょうが、時間がいくらあっても足りないとは、まさにこのこと。

ところで、私が「モナ・リザ」を見たわずか2時間後に、過激な環境活動家によるクリーム散布事件が起きたようでした。

こちらの記事の中で紹介した、ジョルジョーネまたはティツィアーノ作の絵画は、実は「モナ・リザ」の真後ろにありました。

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保護用のガラスで覆われているので、美術館としてもとりわけ大事な絵として扱っているのが分かります。
でもいかんせん、人々は「モナ・リザ」に殺到
私はリュートが描かれたこちらのほうに、見入りました。

その後は・・

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ちょっと恥ずかしいですが、リュート奏者シャルル・ムートンの肖像画と一緒に自撮り。

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ついでに、といっては失礼ながら(!)ショパン大先生とも。

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いやはや、もうお腹いっぱいです

絵画の展示室については、「モナ・リザ」の部屋だけ込んでいて、あとはがら空きといった感じでした。

というわけで、これまではそれほど注意して見てこなかった静物画も、今回に関してははかなりじっくり見ることができました。

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この絵を前にすると、何かしらの寂寥感に襲われます。

さて、ルーヴル美術館を後にしてセーヌ川の対岸へ

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橋の上から。シテ島とノートルダム大聖堂が見えます。
大聖堂へは初日の午後に、すぐ目の前まで行きました。
前回時の訪問があの火災の前だっただけに、変わり果てた姿を見るのはなかなかつらかったです。

さて橋を渡ってからいよいよ、『パリ歴史探偵』の記述をたどるように、中世のパリの城壁の痕跡を探して探検開始。

かつての城壁にほぼ沿っている通りで、早速このようなプレートを発見。

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12世紀末から13世紀初めにかけてフランスを統治した、フィリップ2世(オーギュスト)の城壁の紹介です。

13世紀初めに築かれたという城壁は、早速このような形で、突如としての建物の中に「擬態」して現れます

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さらに2世紀ほど経ってから城壁の外に掘ができて、それがルイ14世紀の統治時代に取り壊された後は、今歩いてきた通りが、今と違って「掘」に関係する名前だったことも、『パリ歴史探偵』には書いてあります。

地形好き、地名好きにもたまらないですね。 
まさに「ブラタモリ」を、勝手にパリでやっている気分です。

この界隈の良いところは、ちょっと歩き疲れたら気軽に良さげなカフェに入れること。

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コーヒーではなく、「レモンの生絞り」を注文。
自分で水と砂糖を自由に足して、お好みのレモネードを作るんだそうです。

一帯は学生街なので、バリバリの観光地であるルーヴルのほうと比べると、比較的物価が安いのも魅力。

カフェで休憩して英気を養ってから、またかつての城壁に沿って歩き出しました。

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この不自然な段差が、まさに城壁と外掘の名残り
周りは大学関係の建物が多いです。

しばらく行くと、住宅街に。

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よく見ると、ごつごつした城壁がむき出しになっています。
別にわざと残しているのではなく、全部壊すのが面倒くさかったようにも見えるのですが・・
とちらにしても、中世の城壁はかなりの高さがあったみたいですね。

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さらに進むと、このように階段になっているところがいくつかありました。
これまた、城壁と掘の跡が生み出した高低差です。
先ほどの階段といい、高低差に興奮するなんて、完全にタモリではありませんか

上り勾配の道を歩いてきて、ようやく開けたところに出ました。
パンテオンです。

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パンテオンの中には入らず、左奥に見えている古そうな教会を目指します。

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こちらが、サンテティエンヌ・デュ・モン教会(Église Saint-Étienne-du-Mont)です。

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ヴァロワ朝のフランソワ1世の時期に建造が開始され、ブルボン朝のルイ13世の時期に終わったと記されています。

中に入ってみると、確かにパリ市内の教会の中では古そうです。

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教会内部に書かれた説明に目をやると、かつてはこのすぐ隣にもう一つの教会があったことが分かります。

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両者が通りを隔てて隣り、というのではなくて、教会同士がくっついて建っていたのです。

左が現存するサンテティエンヌ・デュ・モン教会。右は、今は存在しないサント=ジュヌヴィエーヴ修道院(Abbaye Sainte-Geneviève)の教会です。

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両者が並んでいた時期の銅版画もありました。
こうして見ると本当に、くっついて建っているという表現がぴったりです。

今自分が立っている丘に至る道の一つには、より歴史の古い、右側のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院の教会と同じ名前がつけらています。

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その「サント=ジュヌヴィエーヴ通り Rue Sainte-Geneviève」は、古代の巡礼道に由来する道
この左側は急な下り勾配になっています。
(左の木のところでちょうど立小便している地元民?がいたため、見切れています・・)

実は『パリ歴史探偵』の本には、これらの教会に関することは特に書かれていません。

今回私がこの場所を目指し、そもそもプレートの「Sainte-Geneviève」という文字列を見るだけで興奮を覚えるのは、何よりもこの曲があるからです。

マラン・マレ(1656~1728)作曲の標題音楽、『パリ、サント=ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘の音 Sonneris de Ste. Geneviève du Mont-de-Paris』。

1991年公開のフランス映画『巡り逢う朝 Tous les matins du mondeでは、開始冒頭から鍵になる曲として(演出上、かなり粗野な感じではあるものの・・)登場します。

聴いていただくと分かるのですが、出だしから常に「レ、ファ、ミ」の三音が執拗に繰り返される型破りな曲で、私は子供の頃にこの曲を聴いてドはまりしてしまいました
それまで中世、そしてルネサンス音楽ばかり聴いていた自分が、いわゆるバロック音楽が好きになった最初のきっかけの曲が、これだったかもしれません。

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実は前日に訪れたパリの楽器博物館で、思いがけずマラン・マレの有名な肖像画と遭遇!
マラン・マレは、ルイ14世に仕えたヴィオールの名手でした。

さてこの一帯は、丘の下の大学街と比べてさらに一段と下町の雰囲気を残した場所という印象を受けます。

これは後で調べて知ったことなのですが、今はなきサント=ジュヌヴィエーヴ教会、及び先ほど前を通ったパンテオンのある場所には、ゲルマン民族大移動の過程でフランク王国を建国したクローヴィスが、6世期のはじめに自らの妃と共に建てた修道院があったと言い伝えられていました。

修道院教会の名前は、パリの守護聖人となっている修道女、聖ジュヌヴィエーヴに由来しています。
パリの町がフン族に包囲された際の、彼女の勇気ある行動によって、元来非キリスト教徒だったフランク王が改宗したと伝えられ、その真偽はともかく、この丘一帯はパリの歴史全体を考えても相当昔に遡る、とても由緒ある場所だったといえるでしょう。

ともあれマレが先ほどの曲を作った時には、確かに2つの教会は併存していました。
しかしその後60年ほどして勃発したフランス革命による混乱などもあり、修道院に属していたサント=ジュヌヴィエーヴ教会を取り壊して、19世紀はじめに新しい道ができました

その名前が、ずばり「クローヴィス通り」になっています!

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かねがね、マレの作品のタイトルに「デュ・モン du Mont」とついているのが不思議だったのですが、ここが古代の巡礼地に由来する丘ということを知って、わざわざ「丘の du mont」という言葉が添えられている意味が、はっきりと実感できました。

しかもその丘は、中世にフィリップ2世による城壁が築かれた際、その内側の南端に取り込まれたのでした。

こうしたことはやはり、現地で実際に自分の足で歩かないと、分からないものです

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さて、そのままこの通り沿いに教会の横を抜けていくと、やがて交差するのが・・

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今度は「我思う、ゆえに我あり」で知られる、哲学者デカルトが通りの名前になっています。

1100年以上を隔てた世界史上の人物たちがここで交わるというのも、感慨深いですね。

この先にいよいよ、今回の探索のお目当てがありました・・

続きは近日公開の「後編」にて!




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