多様性

難行苦行の日々が、数日。何が苦痛なのか、と言えば、「学生を評価する」こと。

こればっかりは、何年やっていても、全く「慣れ」ない。今年もその時期が到来し、何度となくコードを読み、プレゼン資料を読み(院生はレポート評価ではなく、プレゼンで評価すると、シラバスに明記しつつ、GitHubに上げたコードも「プレゼンの一部」として加味すると、一応納得してもらっているみたいで、来年からはシラバスにプレゼンの他に「プログラムコード」を加えなきゃ、と思った、けれども・・・)一向に評価がつけられないまま、数日が過ぎ、自分の意識の中である程度煮詰まった時点で、一気に、A-, A, A+, Sの4段階の評価を割り振った。

最後まで授業に出てきて、私が教材として提示した内容を自分でも試して、その上で、自分なりの「設計」でテーブル構造やユースケースを設定した、時点で、最低でもA評価は出すよ、と約束していて、出席要件の足りている全部の学生がその基準を満たしてくれたので、とにかく一安心した。

私は、メンタルが強くない。とっても、打たれ弱いんです。本当に・・・

どうしたらいいのかわからずに、固まってしまって、何もできなくなる、ということは、今でもあって(この「成績評価」もそうだけれど)固まって何もできなくなった挙句に、留年したこともあるし、取引先に迷惑をかけたこともあるし、その人その人の「今」のメンタル次第では、そういうこともあるだろうな、と思えてしまうから、D評価もそうだけれども、「成績をつける」という行為そのものがキツい。
学部の場合、講義科目の場合には、テストを実施してそれだけで評価をつける。これは楽。テストの結果で「機械的」に評価することにしているから、学生には途中経過も開示した上で、何度も警告を投げて、D評価を出すにしても、自分自身が納得できる条件を整えた上で、一気に成績をつけている。ほとんど悩まない。
講義科目はそれほど「苦痛」ではないけれども、ただ、「レポート評価」がある場合には、「評価基準」を定めてできるだけ「機械的」にやりたいと思っても、それなりに「ブレ」はあるし、やはり「主観」的に(微妙な表現の違いで、「あ、こいつ、かなり考えてる」とか「あ、こいつは、全然わかってないな」とか、なんとも第三者には説明し難いところで判断した上で)C, B, A, Sをつけている部分もあるので、主観が入り込む分、悩んでしまって、私自身が固まってしまう。

「商用のプログラムコード」なら、目的を果たしているか、だけで評価できるから、まだいいけれども、学生の演習的なプログラムだから、「どうしましょうかねぇ・・・」になってしまう。「自分で欲しい成績評価を提示してもらって、そのまんまでつける」っていうのがアリなら、こんな楽なことはないんだけれども・・・

とにかく、A-〜Sまでの4段階は、割り振った。大事なのはとにかく「オリジナリティ」で、「自分で創作したものを提示する」ということ。それがあれば、とにかくA以上で、なんとか今年も済んだ。

ただ、今年は去年とは随分と「コードの中身」が違っていた。授業中の私の「伝え方」で、ある意味、私の意図がかなり正確に学生に伝わった、という感じかもしれない。
「自分のスタイルでプログラムを書く」のは、完全にOKということを伝えていたら、実にバリエーションに富んだコードが出てきた。

「教える」側の私が「型にはめよう」として、テンプレート的なものを提示し、学生の側も「型にハマろう」として四苦八苦すると、「大したことのない」プログラムが出て来がち、な気がする。今回の場合には、Python/Djangoという「型」は一応あったけれども、世間一般でも、もう、Djangoの使い方などググれば「これもアリなのかよ」的にザクザク出てくるから、特に、Javascriptとの連携を授業で取り上げたら、もう、経験のある学生はバックエンドのpythonコードよりもフロントエンドのjavascriptの方が多い、くらいのコードを書いてきて、中国からの留学生も含めて、さすがに大学院生というか、「1を伝えた」だけなのに「10くらいのプログラムが出て来た」感じで、もう、何もいうことはなく、文句なしでS評価をつけた学生が何人もいた。これはやはり、嬉しい。

WEBプログラミングの場合には、HTML/CGIの時代から ASP/VB, ASP/VC++, JSP/Tomcatなどの時代を経て、PHP、Javascript、node.js、ruby on rails、Django/pythonなどになって来ている。長らくRuby on Railsで教材を書いていたのを、一昨年あたりから Django/Pythonを取り上げるようにした。フロントエンドで連携させるのは javascriptだったけれど、node.jsの表記を教材に組み入れようかと、思っている。とにかく「新しいもの」の出るスピードが速い。それで、古いものがフェードアウトする場合もあるし、フェードアウトせずに生き残る場合もあって、新旧の混在によるバリエーションの多さが半端ない。

コードを読んで思った。「自分のスタイル」がアリで出て来たコード、「この人は、たぶん、中学生頃からプログラミングを始めたに違いない」とか、「こいつ、間違いなく10年近くコードを書いてる」とか、そんなのがゾロゾロあった。大学院生でも、以前はせいぜい数年で、経験のあるごく一部の学生が「こなれた/洗練された」プログラムを書いていたのに、今年は違った。私自身の「教材」の準備(改訂)が、とにかく間に合わなくて、「かなり、なんでもアリ」に近い形の設定にしたら、何ともバリエーションの多いプログラム提出になった。
ちょっと、驚いているというよりも、「やっと、こういう時代になって来たのかな?」という嬉しさの方が多いかな。

「スタイルの多さ」=「多様性」は、変化や課題の多い時代には「強さ」に直結する、と思う。何かと「型にはめる」ことが好きな文部科学省の「教育」の洗礼を受けてきた、割には、いい傾向だな、と思った。
私は、30年前からWEBなどに書いている主張は変えていない、つもり。昔「ゆとり」が必要だ、と書いた覚えがある。その時書いた「ゆとり」は、言ってみれば車のハンドルの「遊び」というか、「型」から外れたものをもっと学校で受け入れる必要があるんじゃないか、という感じの主張だったつもり。ところが「ゆとり」教育で実現したのは、「高度なものを切り捨てる」上で、「ゆとり」という「型」を新たに作ってしまった感じの「教育制度」だった。なんだかなぁ、これが日本なんだろうな、と、呆れるしかなかった覚えがある。
それにしても、このスタイルの多さ。いや、邪推するなら、文科省の「お役人」がコンピューティングの技術の多様性に追いついていなくて、児童/生徒/学生にハメたい「型」が思いつかなかったおかげで、これだけ様々なフリースタイルのプログラムが出て来たのかな、と思った。(中国からの留学生も、含んではいますが・・・)いい傾向だ!

「多様性」は、ある意味で「強さ」であり「豊かさ」である、と思う。「一人」で全部できる必要なんかない。「その問題なら、彼/彼女が解決できる」という状況であるならば、それでいいんだろうと思う。その「解決できる問題の幅」が広がるならば、いうまでもなく「強い国(組織)」になってくると思う。

ここで、話題が変わる。(主題は同じ。)

数日前に、テレビを見ていたら、「世界で、民主主義的な国と、独裁政権の国とは、ほぼ半々です」という、たぶん、BBCかどこかの番組から引用してきた解説があった。

日本のように、一つの言語、一つの民族が大半を占めている国、ばかりではなく、言語も、人種も、歴史も様々な人々が「一つの国」を形成している場合、「民主主義」では政治が迷走して、「何も決められない」ようなケースが出てくる、ということは、確かにあるんだろうな、と思う。(言わせて貰えば、それは「指導者になる」人たち、あるいは「指導者を選ぶ」人たちが、多様性を認めた考え方をしていないから、だと思う。)そういうケースでは、確か、チュニジアのニュースが出ていたと思うけれど、「独裁」の場合、もっとも制約を受けるのは「多様性」だという気がする。
「独裁」=「非民主主義的」==>「悪」という構図は、必ずしも成り立たない。船頭が多くて、あるいは、自分の都合ばかりを主張する「政党」が多くて、何も決まらないならば、「独裁的」に誰かに決断してもらいたい、ということは、結構あるんだろうと思う。

「清貧な独裁」というチュニジアの選択 「アラブの春」は終わるのか
https://www.asahi.com/articles/ASQ7V6S6XQ7VUHBI007.html

私は日本に「多国間主義」を貫いて欲しい。相手がどんな国であっても(原則として、ということになるかな、例外もあるかもしれないけれど)、「相互の利益」(win-win)を追求した上で、友好関係を維持して欲しい、と願う。そうした、フレキシブルな/柔軟な外交を実現するためには、受け口となる「国内事情」が「多様性」を受け入れる必要がある、と認識している。それは政治が、(合法である限り)「国民による自由な行動」を保証する、という前提があって、初めて成り立つ、と思う。

話の枕が長くなったけれども、「独裁的な政治」は、経済活動においても「自由な判断」に制約をつけるケースが多い、ように私には思えている。
地球環境問題にしても、多国間の経済連携にしても、安全保障にしても、「自国だけ」でなんとかなる時代ではなくなった、気がする。そうなると、「政府」の意図に反して行動しないと、問題が解決できない、ようなケースが多々出てくる気がする。

そうなった時に、多様性を内部に持たせている国は、「誰か」が問題解決をしてくれる、そうした場合が多いのに対して、独裁的な政府では問題そのものを「黙殺」せざるを得ない状況に置かれる場合が多くなる、気がする。結果として、「独裁政権」の国は(「独裁」の形態にも依るんだろうけれども)全般的に、「貧しく」なるように思えてならない。

中国やロシアが、「国際協調」の枠から外れて自前の「宇宙ステーション」の計画に乗り出している。どちらも、自国の都合で「宇宙からの軍事攻撃拠点」を作ることが目的なのは、明白な気がするけれども、おそらく、実際にそうした宇宙ステーションを作ったなら、宇宙デブリで悲惨な事故を起こすだろうという気がする。
宇宙デブリは「増殖」する。周回している微小なデブリが比較的「大きい」デブリに衝突すれば、「大きい」デブリから多数の「小さいデブリ」が飛散してデブリの数が増える。既に「安全」に宇宙ステーションに人が滞在できる限界に近づいている気がする。と言っても、9σだったのが5σとか4σ位の確率に上がってきた、という程度で、「何も起きない」確率の方が遥かに高いとは思うけれども・・・「独裁」でなければ、こんな発想にはならないだろうな、という気がした。見えすいた本音なのに、強行してしまうところが、すごい。
ただなぁ・・・マーフィーの法則っていうか、「起きる可能性のあることは、必ず起きる」っていうのが、やっぱりある気がする。4σと5σでは随分違うとは思うが、もはや無視できない水準に近づいている気がする。
話を戻して。

そういう「覇権主義」を目指す独裁国家もあれば、独裁者の「個人の利益」のために独裁の道を突っ走る国家も、民主主義国家に匹敵するくらい多い、ということなんだろうと思う。BBCの放送で、50%:50%のような数字が出たのは、人口比なのか、国家数なのか、面積比なのか、よくわからないけれど。
トランプがそうだったけれど、要するに「自分の都合」しか考えずに「国家を私物化」したい人たちが政治をやってる、としたなら、いずれは貧困化してフェードアウトするか、国民の「我慢の限界」を越えるか、どちらかだと思う。「外の世界」を知ってしまったら、知らなかった頃には戻れないような気がする。外から干渉する必要なんかなくて、静観したらいいんじゃないか、という気がする。無論、非難すべきは非難し、自国民の「不当逮捕」などがあったら抗議しつつ、状況次第で「外交関係」などは持たない状態で「国際社会の連携」からは切り離された状態に置くしかない、そういう国も少なくないんだろうと思う。時間はかかるとしても、その結果はかなりはっきりしていると感じる。

web技術は、情報技術の重要な一角を占めていて、特にセキュリティ関連では「不法行為」に対する連携で、ある意味で「国際協力」が不可避な領域になっている気がする。政治家の認識が甘い「国家」が動かなくても、技術屋レベルでは完全に「有志連合」が成立している気がする。
他の学問分野については、わからない。毎年「教材の書き直し」が必要になる、なんてことは、ない分野が少なくないとも思う。「政治」も「経済」も、十年一日でもいいのかも知れないけれども、だとしても、自由に活動する「誰か」がいるから、その「誰か」の実績が道を作って、もしかしたらそれが「国家の資産」につながってくる、そうしたケースも少なくない、私はそう発想する。

憂鬱なニュースが多いけれども、ちょっと身近に感じた「明るい話題」を書いてみた。情報系の「次の世代」が、世界でも活躍できますように。新しいものに遅れを取ることなく、なおかつ、不必要な「ガラパゴス化」をしないように、今後の明るい展開を願っている。

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