浅い眠り。

指の一本さえ動かない。意識をおいてけぼりにして、体だけが9.8m/s2で沈んでいく。足の先から順繰りに力を込めて、ようやく眼球だけが動いた。あたりをぐるりと見回し、全然知らない場所に放り出されたのではなくて、自分の部屋にいることを確かめて、とにかく、息をつく。実際、ため息を吐き出すほどの体の自由はなく、あくまで、気持ちだけの問題だ(身を切るような思い、のようなもの。腹がよじれる、は、それらの仲間ではなさそう)。不意に、腰の上に重たさを感じる。息苦しいほどの質量。寝間着の上から感じる肉の柔らかさ。徐々に這い上がってくるのがわかる。どうしたってまぶたは閉じられない。目がそちらを向くのをなんとか食い止めるのがやっと。声を出そうにも、細い呻きが洩れる程度で、とても隣の部屋で眠る家族には届かない。やめてくれ、それ以上来ないでくれ。嫌だ、見たくなんか無い。それを見てはいけない。顎に髪先が触れる。女だ。髪は黒い。額は暗がりの中で際立って白く見えた。目が落ち窪んで、赤い、口も、赤、赤、赤が、ぐにゃりと歪んで、そうか、笑ったのだと、そこで目が覚めた。

指の一本さえ動かない。意識だけが嫌にはっきりしていて、体は鉛のように重たく、自らの意思ではどうにも動かない。呼吸に合わせて胸が上下する運動のみが、機械的に行われ続けている。寝台のすみで、壁に添って横になっている。薄く開いたまぶたの間から見える壁の傷に見覚えがあって、ここが自分の部屋だということにひとまず胸を撫で下ろす。事実、手のひらで鼓動を確かめるような体の自由は持ち合わせていないために、あくまで、気持ちだけの問題だ(胸が張り裂ける、のようなもので、胸を張る、は、その仲間ではなさそう)。隣の部屋で寝ている父親のイビキが壁越しに聞こえてきて、平常なら頭に来るところだけども、今は心強く思う。まぶたを閉じようとするも、叶わないで、口の中がカラカラに乾いて舌が上顎に張り付いて気持ちが悪い。眠っているフリを続けなければ。起きているのを悟られてはいけない。背中から、床板の軋む音が聞こえる。生暖かい、湿った息がうなじにかかった毛を払う。体が動かないのを、今ばかりは心底よかったと、そうでなければ、とっくに狸寝入りを暴かれていただろう。狸は寝入り、狐は嫁入り。大きな手のようなものが、首に当てられた。徐々に耐えられないほど熱くなっていく。焼いた鉄を、溶けたプラスチックを、分厚い舌を押し付けられているような。もう一度、ふっと息がかかって、そこで目が覚めた。

一本の指で障子に穴を空けた。限界まで張り詰めた紙が、プツリと音を立てて破れる。息を殺して、そっと部屋の中を覗いた。板張りの床の冷たさが、裸の足の裏を伝って背中を震わせる。全身の産毛が逆立つ。事実、鳥肌が治らないのだが、鳥と人と、どこが違うのだろう。生きて死ぬだけなのに(血を抜かれて、食べられるようなもので、母は、その仲間ではなさそう)。父の生家の廊下、かすかに線香の匂いがする。仏間の隣の小さな部屋。亡くなった祖父を横たえた布団と、そこで夜を明かしたのは記憶に新しい。でも、今の僕は小学生だ。神棚がずっと上に見える。幼いころ、祖母に聞いた話では、1月1日の、1時11分11秒丁度に障子を破って中を覗くと、未来の自分の姿が見えるのだという。それを信じて、親戚の寝静まった夜に抜け出してきたのである。片目を瞑って、なんとか覗き込むと、部屋の中心に老婆が座っている。記憶より随分と老け込んで、昔話に出てくるようなツギハギの着物を着ている。どうにもあれは僕じゃ無い。祖母だ。祖母の未来だ。思わず後退りをすると、何が見えた?振り返ると微笑む祖母。何にも見えなかったと答える、そこで目が覚めた。

一本の指が僕の鼻先に向かって伸ばされている。近所のスーパーマケット、食品売り場の棚の、背中合わせに置かれた2つの棚の、端で真ん中の、通路に向けて置かれた1つの棚の、ファミリーパックのチョコレート菓子が並べられた前に、背中を向けて、小学校低学年くらいの女の子がしゃがんでいる。第二次性徴を迎える前の、細い髪の毛、小さな肩、細い手足、パステルカラーのパーカー。ゆっくりとこちを振り返る。顔を見て、知っている子だ、と気が楽になった。実際、胸を開いてみるとわかるのだが、小さな心臓ほどはやく動くものである(筋を断ち切る、ようなもので、これには少々骨が折れるが、僕はこれまで骨折したためしがないことを人に話すと、いつでも驚かれる)。○○ちゃん、と、文字に書き起こすのは躊躇われる音で彼女を呼ぶ。呼ぶたびに、違う音を発してみるのだけれど、毎回、決まって、違う、違う!と少女が叫び、顔を歪めて、真っ赤にして、追いかけてくるものだから、たまらない。こんなことなら普段から運動をしておくべきだった。最初はリーチの差もあって、余裕をもって逃げられるのだけれど、次第に追いつかれて、刺されて、次はどんな名前を付けてあげようか、と、そこで目が覚めた。

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