諸行無常

帰省中、何度か昔歩いていた道を再び歩くのだが、当然何年も経ってからでは街の様子も少しずつ変わってゆく。その中で最も大きかったのが、猫巣荘と私が勝手に呼んでいたアパートが無くなっていた事だ! 少し前にも一度触れた、多くの猫が出入りする古いアパートである。あろう事か小綺麗な民宿が建っていたという、この哀しみ!

このアパートに対する感慨は私の内にしかなく、その思い出を共有する者は他にいない。即ち、私があの建物を忘れた場合、少なくとも私の知る世界ではあの建物は名実ともに消滅してしまう……という事だ。

これは恐らく、自分一人だけが知っていた昔の人間の死にも繋がる話だろう。私はあれを知っていた、しかしあれが無くなればそれを知るのは私のみ、私の死後はあれを覚えている者はいなくなり、次には私だけを知る者が残る、そしてその者が死んだ時にはその者を知っている者だけが残り、私の事を知る者はいなくなる……。そういう連鎖によって、殆どのものは歴史の彼方に消えてなくなる。

あの家にいた猫達はどこに行ったのか? 最早私に知る術は無い。……昔いた街を歩くというのは、諸行無常の一面を味わうには悪くないかもしれない。


そう、街が移り変わってゆく、それ自体は諸行無常の一側面であって、さほど重要な意味ではない。この言葉の重要な点は、「不変のものなど何もない」、という事である。これが何を意味するか。

まず、不変にして普遍たる絶対者、一神教で語られるような唯一神の否定である。即ち、神から与えられた役目であるとか、これだけは変わらないからこれを信じていようとかいう思想の否定である。真理についても同じ事が言える。

すると次に、自己の存在理由の不明性がくる。或いは、そんなものはない、という思想がくる。これは南直哉の受け売りとなるが、災害や事故で死んだ者に対し、「何故彼は死んでしまったのに私は生きているのか?」という疑問が生じた時、これは自己の存在理由の欠如と直結する。なにしろ、全てが明確な理由で何者かによって定められているとするなら、彼の死にも己の生にも何かしらの意味が無ければならないのだから、それを知っているのであればこんな疑問は浮かばない筈なのだ。それがわからないから、上記の疑問が生じてくるのである。「何故こんなに苦しまなければいけないのか?」も同様で、その疑問を抱いてしまった者に対し現在の苦の具体的な原因を解いても根本的な解決になりはしない―――なにしろ、自分が何であるかという根源的な問いが解決されていない、それどころか往々にしてその問いの存在にすら気付いていないのだから。

主観において何かしらが噛み合った結果、「あの時のあれはこういう意味があったのだ」と考える者が、少なからずいる。オカルトチックな物言いも多くはこれに答えるものだろう。しかしそれらは何れも結果論であり、運命論へと帰着する発想である。寧ろ意味や理由を探していたのだから、何らかのそれっぽいものに見出すのも当然であろう。はっきり言ってただのバイアスである。

運命論は、それ自体は全く無意味である。全てが決まっているのなら、己が行う一切の行為も最初から定められた事であり、即ち、それについてどうこう言うだけ無意味だろう。これは唯一神の発想と同根であり、抱える問題も同一である―――全てが単一の何かであるという発想は、その単一の何かがあろうがあるまいが現実には何らの作用も及ぼさず、その発想が必要なくなるという問題である。

検証不可能な問題は、神にせよ霊魂にせよ「見えざるピンクのユニコーン」「ラッセルのティーポット」の姿勢からして、少なくともそれがあるとは言えず、保留の態度を取るのが妥当であろうというのが私の立場である。少なくともその理論が示すものは現状存在しないものとして扱うのがよい。悪魔の証明は付き合うだけ時間の無駄である。


何も定められていない、絶対者も存在しないとすれば、確かにこれは由々しき問題になるだろう。自分が生きている目的を誰も保証してはくれないのだ。近代以前であれば話は別だったかもしれないが、現代の我々は定められた身分というものを持たない。何をしてもよい、何になってもよいという自由こそ、人々を大いに惑わせる。

また諸行無常は、我々風情が何をしようとも大いなる歴史の中では全く微細な、取るに足らない矮小なものでしかなく、やがてはその痕跡すらも消え去ってしまうという視点をも持たせる。なるほど、確かに今も尚残っているものはある。が、それは残そうとしてきた先人達が、それに成功しごく一部だけを残し得たのであって、極めて特殊な、例外的なものだと認識すべきであろう。そしてそれらですら、到底永遠のものではあり得ないのだ。

生の意味に限らず、凡そ一切の意味や価値というものは、人間が後で勝手に見出しているものに過ぎない。とすると、元々そんなものは無い……というところに帰着する。無意味である、という事だ。よくわからぬまま生きて、後で物語仕立てで人生を振り返り、何らかの意味を見い出せれば個人レベルでは充分満足だろう。ここで普遍のものを求めようとすると―――しばしば決定的に取り違えてしまう。結局は自己満足できるか否かでしかない。共有するものは全て幻想である。

一切は根本的に無意味。普遍、不変のものなどない。これら一連の衝撃、その戦慄こそ諸行無常がもたらす最大の作用であろう……と私は思う。あると信じていたものが、しかし空であった、我々は何も無いところに幻影を見ていたに過ぎない……その意味で、空・縁起・無自性・諸行無常は密接に絡み合う。思想としての仏教はここに最大の特色を持つものだと思う。故に私は惹かれるのだ。

変わらないものを信じようという発想の危険性は随分昔から感じていた。例えば、或る個人の知性というものは、実際は非常に脆く、危うく、簡単に崩れ去るものの上にようやく成立している事を考えると、危ういと自覚しているものこそ私は寧ろ信用したくなるのだ。誰々が言っているからそうなのだろうという安易な受け売りは、私は批難したい。皆が言っているから、という発想についても言うまでもない。知性とは、確たる足場を持たないバランス感覚の事を言うのであろう。安易な理由付けに走らず保留を許す姿勢と、尚考え続ける姿勢を言うのであろう。


ただ、実際現代の日本人は、生きる意味など聞かれても「生まれてしまったので」と答える者の方が多かろう。特に死後や神仏を信じぬ現代的な者はそうで、我々は非合意の内に生まれさせられたわけである。どうせ生きているなら面白いおかしく生きよう、或いは人の役に立つ事をしよう―――そういう姿勢だろう。しかし、今の自分が価値を見出しているに過ぎぬものを、今後も変わらず見出し続けられると自信を持って言える者はどれだけいるだろうか? そんな幻想を、思い込みを続けられる者がどれだけいるというのだろうか?

哲学をするか否かは、いつか死ぬという最大の問題をどこまで本格的に捉えるか、或いは今感じているか今後生じるであろう苦を突き詰めて考えるか否か、そういうところが分水嶺であろうと思う。問わねば、楽に生きられる。そういった者は当然哲学をしないし、不要だろう。しかし不幸にして問うてしまう者達が、少ないながらも確かにいる。

苦と、死と、虚無を、どうしても考えずにはいられないのだ。世に言われている多くの事を疑わずにはいられないのだ。その多くの事柄に穴がある事に気付いてしまい、それに注目せずにはいられないのだ。

仏教にも、その根幹に自己否定の論理を含む。一切が諸行無常であるとするなら、諸行無常すらも諸行無常かもしれない。全てから離れるというなら、その仏教的思想からも離れねばならないかもしれない。そこでシッダールタは言う。仏教は川を渡る筏であって、向こう岸に辿り着いたなら乗り捨ててしまって構わないと。


まあ、私は何故生きるのかという問いについては、それは問いそのものに難があり、誤った問題への正しい解決は甚だ危険なものだという経験論からして、やめておいた方がいい―――それはやがて私のように一切の無意味さを直観してしまうに至るであろう、というのが私の答えになるのだがな。

然らば。



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