見出し画像

サウジアラビアを視察してきました(その弐)

サウジアラビアの建国は、次の3つの期間からなり、首都(政治の中心)がディルイーヤからリヤドへと変遷してきたという歴史があります。

サウド朝(サウジアラビアの王朝)の歴史は、3期に区分けされてなされることが一般的です。ここにおいて、首都機能は、ディルイーヤからリヤドへと変遷しましてきました。

第1期:サウド家の興隆 1744年から1818年
ディルイーヤの役割: サウド家の起源の地、政治的権力の象徴
第2期:一時的な衰退と再興 1824年から1891年
リヤドの役割: サウド家の新たな首都、ディルイーヤからの移行進む
第3期:現代サウジアラビアの形成 1902年から現在
リヤドの役割: サウジアラビアの首都

1744年、ムハンマド・ビン・サウドとムハンマド・ビン・アブドゥル・ワッハーブが同盟を結び、ディルイーヤを首都とし、ナジュド地方の支配を確立しましたのが、第1期。

その後、1818年、オスマン帝国はエジプト総督のメフメト・アリーに命じ、エジプト軍を動員してサウド朝の首都ディルイーヤを攻撃、これにより第1期のサウジ国家は滅亡してしまいます。

第2期は、トルキー・ビン・アブドゥッラー・ビン・ムハンマドがリヤドを再奪取し、サウド家の支配を再確立した1824年に始まるとされます。

第二王朝も、オスマン帝国に同盟したアル=ラシード家による攻撃でナジュド地方が失われ、サウド家はクウェートに亡命しました。

しかし、1902年、アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥッラー(後のイブン・サウド)がリヤドを奪還し、サウード家の権力を復活。アブドゥルアズィーズがナジュドとヒジャーズを統一した1932年が、現在のサウジアラビア王国の始まりであり、第3期と分類されることになります。

前置きが長くなりましたが、この日訪問したのは、ディルイーヤ博物館。

博物館は、第一王朝が首都のディルイーヤに築かれた、サルワ王宮とアブドゥル王宮の内部を利用したものとなっています。

サルワ王宮(左)とアブドゥル王宮(右 ナツメヤシに隠れて分かりにくいですが)
サルワ王宮

この博物館及び王宮のある、アト=トゥライフ地区は、2010年にユネスコの世界遺産リストに登録されました。サウジアラビア王家の最初の首都としての重要な歴史的価値を持ち、18世紀のナジュド地方の都市計画と建築の素晴らしさが認められてのことだそうです。

ただ、第1期のサウジアラビア王国の滅亡後、ディルイーヤはエジプト軍によって壊滅的な被害を受けています。なので、サウド家はその後の復興期(第2期)にリヤドを新たな拠点としました。

「新たな」と言っても両地域は隣接しています。リヤドの拡大に伴い、ディルイーヤも首都圏の一部として発展していますが、その歴史的重要性から、観光地としても発展しており、サウジアラビアの文化遺産を反映した重要な場所として扱われているとのこと。

なので、皆さんも現地に行ってみると分かりますが、いつぞやのドバイよろしく、在りし日のディルイーヤを復興しようと数多のクレーンが稼働しています。

王宮を取り囲む旧市街は、現在復興率10%とのこと。この段階で、既に巨大迷路のようになっており、事実、同行者が迷子になりかけたほど。これが100%になると空恐ろしくも感じますが、サウジアラビアにとって、それほど重要な遺産なのでしょう。

博物館の方は、カイロにあるエジプト考古学博物館とは趣が全く異なり、サウド家の「歴史博物館」といった感じでした。

例えばこちら。何だと思いますか?
何と、サウド家の家系図(Family tree)なんだそうです。

幹に印されているのが、代々の国王。
葉っぱの一つ一つが、故人も含めた「サウド家」の人々。
魅せ方がうまい。さすが、国名にその名を冠する国ですね。

また、ベドウィンの国だけあって、馬も様々なところでモチーフにされていました。キーホルダーはもとより、このような、オブジェも素敵かなと。

博物館の周囲は、このような感じ。
離れた地区でも復興が進んでいますので、完成の暁に再訪したいです。

今回のツアーでは、北部アルウラ近郊にある、サウジアラビアで最初に世界遺産に登録された、「マダインサーレ」を訪れますが、あちらは、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて栄えた古代ナバテア王国の遺跡。

砂漠といえども、様々な人々の営みがあるものだと思うと感慨深いです。
開発に際し「観光公害」を引き起こすことのないよう、願うばかりです。

次回は、キングダムタワー訪問記をお届けします。
お楽しみに。

もしよろしければ、是非ともサポートをお願いします! 頂いたサポートは、継続的に皆さんに情報をお届けする活動費に使わせて頂きます。