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映画『うたのはじまり』を観て

先日の『LISTENリッスン』(牧原依里、雫境共同監督)トークセッションにも通じるテーマです。同時にマジョリティ(聴者)がもつ「無意識の暴力性」にも気づかされます。観る側の世界によってさまざまな感想が生まれる作品なので、「音楽とは何か」を問い&考えたい方は是非ご覧ください。現在配信中です。

以下、内容の一部が含まれます。 
この作品で特に注目したのは「環境音」を字幕にしただけでなく、「音楽」そのものを「絵字幕」で表現したことです。これは聴覚と視覚をつなぐ、世界を拡張する画期的な実験だと思いました。個人的には音に色を感じる方なので提示された色には若干の違和感もあり、それもまた世界の多様性を知る機会になりました。五線譜を使っていますが図形楽譜ではなく、絵画的な視覚表現だと思います。音の「高低」は音のない世界には伝えづらい領域ですが、「聴者の音楽」が西洋音楽の秩序に則ったリズムや旋律の中で生まれている「時間」だということ、音や声のテクスチュアは伝わりやすいと思いました。
 しかしこの映画の中で最も「オンガク」を感じるシーンは、齋藤さんが「子守唄」で赤ちゃんをあやしている身体のリズム、そして地面から生えている一輪の花の存在に気付いた瞬間に他ならないだろうと思います。内の音楽、外の音楽がひとつにつながったとき「うた」がはじまる。それは音のある|ない世界を越えて、世界に全身をひらいたときに気づく共通の感覚なのだと思いました。
 ここ数年ずっと考えているのが聴覚、視覚に限らず、「五感」「五体満足」という私たちの根底にある身体や感覚を捉える概念です。ここからこぼれ落ちてしまうものをハンディキャップと考える。しかし「人間」をかたちづくる感覚の在り様は、実はひとりひとり違うのです。「目できく、耳でみる、手できくみる」ような複合的な感覚の使い方は人それぞれで、それが世界の多様性につながっているとも言えるのです。
 例えば聴覚があっても本当に「音楽」に出会えているとは限りません。心に触れる体験ができるかに聴覚の有無は関係ないと感じるのです。もっと言えば「音楽」と明治時代に訳された「Music」には「音(sound)」が必須条件ではないということです。「Sound of Music」という表現があるように。
 では「音楽とはなにか?」。この問いにいちばん向き合っているのは実は聾者たちかもしれません。当たり前に音のある世界に生きる聴者は、この問いに向き合っているでしょうか?

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