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第四章 展開するデヴィ・シャクティ:吉祥文様コーラムと招来されるラクシュミ女神

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ヴェンカテシュワラ寺院を訪ねた後、タミルナードゥ州に入った私は、まずは州都のチェンナイに宿をとって、州立博物館にアマラヴァティの展示を訪ねた。その、かつて巨大なストゥーパの周りを囲っていた欄楯の浮き彫りとブッダの法輪は、見るものを圧倒する存在感に溢れていた。

アマラヴァティの蓮華輪:チェンナイ州立博物館、MadrasMusingsより

タミルに仏教が伝来した初期サンガム時代、それは正にアマラヴァティでチャクラ美術が花開いた時期と重なっている。時代は下って、チャクラを御神体と掲げるヴェンカテシュワラ寺院とタミルの諸王朝は密接な関係を保ち続けていた。となれば、チャクラ思想はタミル世界に大きな影響を与えたに違いなかった。

タミルナードゥ州を訪れるのは、インド武術を始めて以降これで三回目になる。だが、前二回の訪問では武術取材に専念して、遺跡や寺院などはほとんど回れなかった。そしてインド世界を見る私自身の視点も、以前とは全く異なっている。

果たして、回転技のメッカであるタミル世界で、チャクラ思想はどの様に具象化され展開しているのか。期待を胸に、私は寺院や遺跡をめぐり始めた。そして、目くるめくチャクラ・ワールドに遭遇する事となったのだ。

一般家庭の玄関先に描かれたコーラム

デカン高原以南の南インドでは、伝統的に女性達によってコーラム(あるいはランゴーリ)という吉祥文様が描かれてきた。それは様々な色をつけた米粉(あるいはチョーク)によって各家庭の玄関先の地面に描かれるのだが、それが典型的な美しいチャクラ・デザインだったのだ。

円輪をベースに色鮮やかに描かれたコーラム:Twitterより

色鮮やかに展開するコーラムの図形を玄関先に描くことによって、ラクシュミ女神がその家庭に招来されて、吉祥と富をもたらすのだと言う。そのデザインは、車輪と蓮華輪の延長線上に開花した、正にチャクラ・デザインの精華とも言うべきものだった。

幾何学模様味の強いコーラム。全て16を基調としている
8分割を基調としたコーラムは8本スポークに由来するか?

ヴィシュヌ神の伴侶ラクシュミ女神は、左右には聖なる二頭の白象を侍らせ、美しいピンクの蓮華座に坐り、両手に蓮華をかざした姿で描かれ、ことのほか蓮華イメージの強い神格だった。

ランゴーリやコーラムは、ラクシュミ女神のスピリットを呼び込むための結界として、彼女が坐る蓮華座として、そして彼女を喜ばす蓮の花束として、聖性の象徴である車輪として、その全ての複合である吉祥文様として、長い歴史の間に育まれたのだろう。

ラクシュミ女神:TemplePurohitより

コーラムの習慣は、代々一家の主婦によって担われてきたと言う。それは、ラクシュミ女神を初めとするデヴィ達と共に、インドのチャクラ文化の担い手が男性から女性へと移り代わって行った歴史を象徴していた。

数多くのコーラムを見ている内に、私はコーラムの基本形が六芒星とその中心対角線の*である事に気づいた。それは正に、あのインダスのチャクラ文字からダイレクトに継承されたものではないのか。私はこの符合に、偶然ではない何かを感じずにはいられなかった。

そして、タミルの旅が進むに連れ、さらに新たな事実が明らかになる。結界としての蓮華輪がコーラムと結びついて、寺院の天井と床を埋め尽くす、華麗なる吉祥文様の万華鏡世界を展開していたのだ。

それは決して新しい発見などではないはずだった。10年前にも、そして前二回のインド武術探訪でも、私はタミルを訪れ、その事実を目にしていたはずなのだ。けれど人間の認識と言うものは不思議なもので、たとえ目にしていても意識の焦点がそこに会わなければ、それは決して認識のレベルにまで届かないのだ。

そのめくるめく蓮華輪ワールドに開眼した瞬間、タミルは全く異なった世界として私の前に姿を現したのだった。

パッラヴァ朝時代の天井蓮華輪:マハーバリプラム
かつては彩色が美しかっただろう天井の蓮華輪:ティルカリクンドラム

マハーバリプラム、チダムバラム、クンバコナム、タンジャブールと南下し、パッラヴァ朝からチョーラ朝にかけての寺院建築の宝庫を巡った私は、そこで多くの吉祥文様のペインティングを再発見した。

ブリハディーシュワラ寺院の蓮華輪:タンジャブール

そしてシランバム棒術のメッカ、マドゥライのミナークシ寺院も、気がつけばその天井も床も絢爛たる吉祥文様で溢れていた。

ミナークシ寺院回廊天井の吉祥文様
ミナークシ寺院床に描かれた吉祥コーラム文様
ナタラージャ寺院床に描かれたカラフルなチャクラ紋様:チダムバラム

中でも最も印象深かったのは、ラーメシュワラムのラーマナータスワミ寺院だった。その圧巻とも言える長大な回廊の天井は、蓮華輪を基本に、ありとあらゆる吉祥チャクラ文様のバリエーションによって埋め尽くされていたのだ。

人の少ないオフシーズンだった事も相まってか、その回廊空間はある種宇宙的な広がりと異次元性を感じさせるものだった。

ラーマナータスワミ寺院の回廊:ラーメシュワラム

この寺院は、北のバラナシ、南のラーメシュワラムとも称される様に、数あるヒンドゥ聖地の中でも最も重要なもののひとつだ。それはヴィシュヌのもうひとりの化身であり、ラーマヤーナの主人公として知られるラーマと深く関わっていた。

誘拐された愛妻シータを救うためにスリランカへ渡ったラーマは、そこで悪王ラーヴァナを殺しシータを取り戻す。海を渡って無事インドに凱旋した彼は、ここでラーヴァナ殺しの罪を清めるべくシヴァ(エシュワラ)を勧請し礼拝した。以来この地はラーマ・エシュワラと呼ばれるようになり、後に現在のような荘厳な寺院が、シヴァとラーマを共に祀るものとして建立された。

このラーマの物語は国民的叙事詩としてインド全土に広まり、ラーメシュワラムは、全ヒンドゥ教徒が生涯に一度は巡礼すべき第一級の聖地となった。

実際にこの寺院が建てられたのは11世紀頃だと言われるが、それはちょうど南インドでバクティ信仰といわれる運動が盛んになり、インド全土に広まった時代と重なっていた。

それまで民衆は、バラモンと言う仲介者によって初めて神々とつながる事が出来た。いわば、バラモンは神々を占有する独占プロバイダーだったのだ。けれども社会が安定し、民衆の意識が成熟してくると、そのようなバラモン独占から離れた、言葉の真の意味で民衆のための神々が求められるようになる。

その求めはタミルを中心とした南インドで、神との合一を目指すバクティ運動として結実した。それを担ったのは、身分や性別を問わず様々な階層から輩出した流浪の宗教詩人と呼ばれる人々だった。彼らはバラモンに独占されたサンスクリット語ではなく、民衆にも理解できる日常のタミル語を使って神々への信愛を歌い、寺院を巡って人々の宗教心を掻き立てていった。

そこで必要とされるのは難しい哲学でもなく複雑な祭祀でもない。人々はただ一心に神を念じ、あたかも恋人が愛しい人を思うように神に心を寄り添わす事によって、魂の救済が得られると説かれた。

そしてこのバクティ運動は、デヴィ・女神のシャクティ活動力の信仰とも深く結びついたものだった。女性が男性を深く愛し寄り添っていく心、それが開発因となって男性原理と女性原理が結びつき、世界が展開していく。同じように、ひたすらに神を思い神を愛する事によって、人のその思いが神を動かし、世界に幸福と調和をもたらす。

このバクティとデヴィ女神信仰の機運は、実は紀元前からすでにインド思想界の地下水流として脈々と流れ続けていた。それはヴァガバット・ギータにおいてクリシュナが説いた神への信愛や、あるいはサンチーの門塔における豊満な女神ヤクシとしてすでに顕れている。けれどそれが二つながら結びついたこの時代になって初めて、飛躍的な発展を遂げる事ができたと言えるだろう。

初期仏教にしてもジャイナ教にしても、バラモン教、そして初期ヒンドゥ教にしても、宗教における主役は常に男性だった。出家修行して解脱できるのは男性だけであり、バラモンとして祭祀を行い、神とつながれるのもまた男性だけだったのだ。

シャクティとバクティの運動は、宗教の世界で常に二等市民を強いられてきた女性達が、ついに決起した革命だったのかも知れない。それは同時に、女性がチャクラ思想の担い手として台頭する契機ともなった。その象徴こそが、女性によって描かれる吉祥文様コーラムやランゴーリに他ならない。

バクティの運動は、やがて熱烈な信愛に基づいた聖地巡礼の網の目をインド全土に確立していった。その聖地筆頭とも言えるラーマナータスワミ寺院が、そしてあまたのドラヴィダ寺院が、鮮やかな吉祥文様によって彩られているのは、決して偶然ではないのだ。


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