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インド棒術の回転技『バーラティア』

前回の投稿はこちら ↓

ここまで、ともすれば全く影が薄くなってしまっていたが、この長いながい探求の道のり、そのそもそもの出発点は、あのテレビ番組でインド棒術の回転技を初めて眼にした時、直感的に「これは転法輪の棒術だ!」と閃いた事がきっかけだった。

その後、私の意識の焦点は完全に『チャクラ思想』にシフトしてしまい、棒術は本稿の文脈上も二の次になってしまっていたのだが、それでも旅の途上折に触れてこの回転技について考えて来た。

インド武術において特徴的な棒術の回転技。これまでの取材で、それはインド全土に普及する事が分かっている。マニプル、西ベンガル、オリッサ、ビハール、ウッタル・プラデシュ、マディア・プラデシュ、パンジャブ、ラジャスタン、グジャラート、マハラシュトラ、アンドラ・プラデシュ、ケララ、タミルナードゥの各州では、私自身実際にこの目でその存在を確認している。

西ベンガル州のラティ・ケラ ↓

タミルナードゥ州のシランバム ↓

ケララ州のカラリパヤットの回転技「ワディ・ヴィーシャル」↓

マハラシュトラ州のユッドゥ・カラ ↓

特にドラヴィダ文化の優勢な南インドにおいて、その存在感が際立っていたが、上記以外の州でも多くの場合「昔はよくやっていた」という証言が得られており、棒術の回転技は汎インド武術的な共通言語であり、インドの隠れ国民的エクササイズ・パフォーマンスといっても過言ではないだろう。

ただ、それがチャクラ思想と結びついているというはっきりとした証言は、残念ながら現在まで得られていない。私が自分の考えを話すと軽い驚きと共に「なるほど、もっともだ」という反応が返ってくるのだが、彼ら自身の明示的な伝承としては、未だ確認できていないのだ。

彼らにとってこの回転技は、あまりにも日常に溶け込んだ当たり前の生活文化であり過ぎて、その意味や起源など遥かな昔に忘却の彼方に霞んでしまったと言うのが実情のようだった。

それは棒術だけではなく、実はチャクラ思想に関しても当てはまる。インド人のほとんどが、様々なチャクラ・デザインを日常ごく当たり前の風景として何の自覚も持たずに我が物としている。

それが日輪スリヤ・チャクラに由来する事も、ラタ戦車の車輪に由来する事も、蓮華輪に由来する事も、その中心にある車軸や花托が神や仏を表していたであろう事も、それらが潜在しつつ全てのチャクラ・デザインとその思想を生み出して来た事も、一般にはほとんど認識されていない。

日本人にとっての箸や畳のように、彼らにとってチャクラとは空気のようにあって当たり前のものであり、それについて今さら考える事さえ無いようだった。

ましてやそれを象徴するに過ぎない回転技については言うまでもないだろう。インドは言語によって別れた州ごとの完結性が高いせいか、この棒術が全土で普遍的に行われているという事実さえ、多くのインド人は気付いていない。

だが、プーリーに現存するロープの回転技バナーティの古伝承によれば、棒や鎖による炎の回転技が、王の武威を象徴するデモンストレーションとして戦場の最前線で演じられたと言う。それはアーリア系のダヌル・ヴェーダ(弓の科学:戦場における様々な術技を網羅したヴェーダ)に由来する口伝だった。

またジャガンナート寺院の例祭ラタ・ヤットラのパレードで、バナーティのデモンストレーションが行われている。普通に考えれば、それがラタ・ヤットラの山車であるラタ戦車の車輪やヴィシュヌ・クリシュナのスダルシャン・チャクラを象徴してきたと受け取るのはごく自然な流れだ。

タミルではリングを使った炎の回転技がチャクラ・チュラトゥルー  車輪の回転   と呼ばれ、棒術と共に祭やイベントの定番となっている。実はこのリングの中心には一本の棒がハンドルとして据えられていて、リングを回す時も、実際には棒と同じテクニックで回している事が分かる。最初は単純な一本の棒から、やがてよりリアルにチャクラを体現するリングが生まれたと考えるのが、これもまた妥当だろう。

シランバムのリングの回転技:タミルナードゥ州

回転する炎のリングは、ナタラージャ神像やチャクラ・タルワール・ヴィシュヌ像のモチーフそのものであり、六芒星などデザインとの重なりから、それはヤントラや吉祥文様コーラムとも関連するのは間違いない。

炎のリングの中で六芒星の形で踊るナタラージャ神:タミルナードゥ州
六芒星のチャクラ・チュラトゥルー:タミルナードゥ州

この吉祥文様が特に盛んな地域は、ケララやタミルなど回転技が発達している南インドの各州と重なり合い、おそらくその演舞は、災いを遠ざけ福をもたらし神を招来する、躍動する三次元の吉祥文様として祭などで行われてきたのだろう。

チャクラをベースにした吉祥文様が、宗教宗派を超えたインドのナショナル・デザインである事はすでに指摘した通りだ。

旧20ルピー紙幣に描かれたコナーラクの車輪と吉祥文様

一方、パンジャブ州でシーク教徒によって伝承されているガトカという伝統武術では、マラーティという棒術の回転技と共に、チャッカル車輪という名でロープ製リングの回転技が普及しており、それがスダルシャン・チャクラを表している、という証言を得ている(シーク教は広い意味でヒンドゥ教の新興一派で、ヒンドゥの神も受容している)。

シーク教ガトカ武術のリング回転技:パンジャブ州

残念なことに、リングだけで棒術の回転技に関しては証言が得られていないが、これもタミルの場合と全く同じで、このチャッカルは棒術回転技の発展形だと考えるのが妥当だろう。

ガトカ武術マラーティの回転技 ↓

東インドでは、回転技はドゥルガー女神の祭と非常に関わりが深いという。彼女のシャクティを体現するシュリ・チャクラを回転技が象徴している可能性も否定できない。また、一般的に描かれるドゥルガーはヴィシュヌと同じようにスダルシャン・チャクラを持つことが多いため、それを象徴している可能性も高い。

前回紹介した様に、グジャラート州のガルバ・ダンスにおいては、ドゥルガー女神を男性主神に代わって宇宙世界の不動の車軸と位置付け、その周りを現象世界が転変展開する様子をリアルに体現する祭が行われている。

回転する車輪を体現するガルバ・ダンス:Youtubeより

この様な転変輪廻する車輪世界コスミック・チャクラを象徴する技として、棒術の回転技が演じられてきたという流れも否定できない。

私はこれまでインドの悠久の歴史を、侵略したアーリア人の文化と侵略された先住民の文化が対立しつつも融合していく、そのダイナミズムの中に求めて来た。

そこで問題になる、この棒術の回転技が一体どちらに由来するのか、という点だが、チャクラ思想の原像がアーリア人の武の象徴であるラタ戦車の車輪に由来するならば、その車輪を象徴する棒術の回転技もまた、彼らの伝統の中にそのルーツがあると考えるのが第一感もっとも自然だろう。

ならば、少なくとも武神インドラが最高神として北インドを席捲していた時点で、偉大なる王や神々の武威・威光の象徴であるチャクラ車輪を表象する技として、オリッサ州バナーティの伝承にあるような炎の回転技がすでに行われていたのではないだろうか。それは視覚的な陣太鼓として、躍動するチャクラの昇り旗として、全軍の士気を高めていたに違いない。

あるいはそれはさらに古く、シンタシュタやアルカイムの時点で他民族に優越する偉大なるアーリア人の力の象徴として、すでに戦場や祭礼において演じられていた可能性さえあった。

回転技の基本は、両手で交互に棒を受け渡しながら回し続けるという極めてシンプルなものだ。それはある意味、スポーク式車輪を造ることよりも遥かに簡単・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だと言える。それが紀元前2000年の昔から実践されていたとしても、なんら不思議ではない。

そう考えるにはひとつ理由がある。私自身もインド武術を紹介しているユーチューブには、世界中の伝統武術動画がアップされているが、そこでジョージアやハンガリーの伝統武術、さらにロシアの特殊部隊で採用されている格闘術の起源であるコサック人の伝統武術などの中に、インド棒術の回転技に酷似したテクニックの一端が存在しているのだ。

さらに彼らの剣の操法もまた、ケララ州のカラリパヤットなどインド武術の剣の操法と瓜二つだった。

ハンガリーの伝統武術『バランタ』に見る棒術の回転技 ↓

ジョージアの伝統武術に見る棒術の回転技 ↓

黒海とカスピ海、その間にあるコーカサス山脈の北側には、広大な南ロシア大平原が広がっている。インド・アーリア人の母集団がスポーク式車輪を開発し活用したのは、正にこの大平原地帯に他ならない。そして、ハンガリーはその西端、ウクライナに接しており、ジョージアはその南端に聳えるコーカサス山脈から南に位置している。

ハンガリーやコサックそしてジョージアなどこの南ロシア大平原を中心とした東ヨーロッパの文化と、遥か遠く離れたケララの文化において、なぜ刀の操法と棒の回転技が共有されているのか。両者が交錯しうるのは『アーリア人の共通起源』以外私には考えられない。

カラリパヤットがドラヴィダ武術とアーリア武術のダヌル・ヴェーダ弓の科学が融合した、ハイブリッドだった事を思い出そう。

コサック武術の剣の操法 ↓

少々専門的過ぎて分かり難いかも知れないが、上のコサック武術、一刀流二刀流の回転技で用いられているテクニックは共にインドにおける剣の操法と全く重なり合い、それは同時に、実は棒術の回転技テクニックでもある。

カラリパヤット、ダブル・スティックの回転操法 ↓

ロシアの剣の回転操法 ↓

世界中どこでも共通してそうだと思うが、そもそも棒術というものは刀や槍、薙刀などの殺傷武器の基礎を学ぶために実践されており、『棒の操法=刀や槍の操法』である事が基本になっている。

ひとつの大前提として、棒術の回転技は剣や槍を使いこなすための基礎練兵として必要不可欠なサブ・システムだったのだ。

日本でも「弁慶が水車の様に槍を回した」などという表現があるが、これら東ヨーロッパ全体に見られる剣や棒の特異な回転操法は、彼らの共通祖先であるアーリア人によって、ラタ戦車の『車輪』の畳みかける様な回転を模してはじめられた可能性が高い。

それは上のコサック動画で演じられる、二刀を柄のところで合わせて1本の棒(両端が刃の薙刀)のように高速回転させていく技をみれば、誰でも頷けるのではないだろうか。

もちろんこれはひとつの仮説に過ぎず証明は困難なのだが、これまでの探求を通じて、回転技はスポーク式車輪を創造したアーリア人の『チャクラ意識』を源として生まれたと考えるのが、やはり一番妥当だと私は判断している。

仮に、だが、もしもこの読み筋が正しければ、インド棒術の回転技、その起源は優に4000年以上の時を遡る事になる。もちろん証拠など何一つ残されてはいない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。だが、それはなんとも壮大な歴史ロマンだった。

それが彼らの東征によってインドへともたらされ、インドラの時代からブッダの時代を経てヴィシュヌ・クリシュナ、シヴァ・シャクティのヒンドゥ思想に至るまで、優れた練兵法でありつつ同時に一貫してチャクラの神威を表わし続け、インド人に愛され続けた。それが一番自然で蓋然性の高いシナリオだと私は思う。

東ヨーロッパではほとんど目立たない程に埋没してしまったこの棒の回転技が、何故インドで現代に至るまで長く伝承され、そのテクニックにおいても格段の進化を遂げ、回転技単独でひとつの身体文化・表現として社会的に確立され得たのか。

大英帝国による植民地支配下、伝統武術全体が過酷な弾圧を受けた中でもこの回転技は生き残りひそかに全土で実践され続け、剣や槍を使った戦闘などとうに廃れた今日でも、宗教的な祭礼やイベントの中でひとつの祭の華として活発に演舞されている。それは正にインドが聖チャクラの国であり続けた結果ではないだろうか。

これもまた想像の域を出ないと言えばそれまでだが、私はブッダや仏法が転じる法輪に例えられそれがアショカ王によってブレイクしたどこかのタイミングで、回転技もまた、インドラ的な偉大なる転輪武王を象徴する技からブッダの転法輪を象徴する真に聖なる演舞へと質的転換を遂げたのではないかと考えている。

この仏教公布の時代に至って初めて、それは武力の象徴から分離し、純粋に宗教的な聖性を象徴する技としても、全土に普及していった可能性が高い。

何故なら、古代インドの一時期において、仏教の法輪その威光は、アショカ王以降文字通り飛ぶ鳥を落とす勢いで広まっており、その時にもし父祖伝来の回転技が存在していたのならば、彼らがそれをブッダの法輪に重ね合わせないはずは無い、と感じるからだ。

アショカ王のマウリア朝から中部デカンのサタヴァハナ朝を経てタミルナードゥへ。仏教と共に法輪や蓮華輪などチャクラ・シンボルがたどったと同じこのルートを、棒術の回転技もまた北から南へと伝播して行ったのではないだろうか。

一般にある文化が総体として伝播するのは(これは大変不幸なことだが)軍事的な征服や戦乱時の大規模な民族移動に伴って起こり易い。その際には征服者であれ避難民であれ兵団も一緒に移動している筈で、彼らが棒術の回転技を携えてそれを伝えた可能性は高い。

またアショカ王のインド統一後、街道がその版図全域に整備され、物資の流通と共に南北インドの間で恒常的な人と文化の交流が活発化している。

タミル武術の揺籃であり、シランバムの起源とされるサンガム時代は紀元後の数世紀間に花開き、それはアショカ王の紀元前3世紀から紀元前後のサタヴァハナ朝を経て様々な文化が北インドから伝播したタイミングと全く符合する。

回転技が複合的なチャクラ思想を象徴する技でもあるならば、それはチャクラ思想の変遷に関わらず、常に影のように一心同体の文化装置として共に伝播していったと考えるのが自然だろう。

その後、タミル世界から分離したケララには、西北インドから南下して来たバラモン達によってアーリア武術のダヌル・ヴェーダが伝えられている。そこにおいて回転技はよりヒンドゥ色が強い形で再インストールされ、ドラヴィダ世界にしっかりと根付いたのだ。

オリッサ州パイカ武術の伝承にあるように、古代インドでは専業戦士であるクシャトリヤだけではなく、戦時には農民など一般人男子も多く徴用され前線に送り込まれた。

その為、大衆レベルで基本的な練兵が普及していた可能性が高く、そこで剣や槍の基礎訓練として取り入れられていた棒術の回転技が兵士たちに叩き込まれ、草の根レベルでの回転技の普及に一役買った流れもあったかも知れない。

そしてその技は、平時には村の祭りにおいて神や仏の偉大さを称揚する象徴的なチャクラ・アイコンとして、兵役仕込みの男たちによって華麗に回転し舞い踊られたのだ。

やがて南インドで仏教がほぼ滅んでしまった時、おそらくは棒術の回転技もまた、ブッダの転法輪から完全に切り離され、ヒンドゥの様々なチャクラ意識を象徴する技として、人々の日常生活に溶け込んでいった。そしてブッダの転法輪の記憶は、人々の心の中から、完全に失われてしまった…

上の動画は最近投稿されたシランバム棒術のものだが、棒の両端にリボンを結んだもの、火をつけたもの、そして炎のリング、全てをまっさらな気持ちで見つめれば、これらが回転する聖車輪チャクラ、あるいは展開する吉祥チャクラ文様以外の何物でもないという事が納得できるのではないだろうか。

4000年以上に渡ってチャクラの民であり続けたインドの人々。神聖チャクラ帝国と言ってもいいほどにチャクラを愛し続け、奉じ続けたインドだからこそ発展し継承され続けたのが、棒術の回転技だったのだ。

『聖チャクラの国インド』に対する大いなる敬意と共に、最終的に私は、そのように結論付けている。

だがこの回転技、実はインド全土で共通する名前がない。各州が各地方語の様々な名前で呼んでいる上、それが国民的エクササイズであるという認識すら、彼らの中には存在しないのだ。

そこで私は、(あくまでも日本などインド国外向けにだが)『神聖チャクラ帝国』の国技としての回転技にその由来に相応しい新しい名前をつけたいと考えた。

その名は英語で『Bharatia Stick Art』という。日本語では略して『バーラティア』と呼ぶ事にしよう。

あまり知られていない事だが、わが国の名称が自称であるニッポンと外国人によって名付けられた他称であるジャパンの二つあるように、インドにも公式に二つの国名が存在する。

ひとつが外国人によって呼ばれた英語のインディアインドであり、もうひとつがインド人自身による命名で、国民的叙事詩マハバーラタに由来するバーラトBharatという名前だ。

バーラタ族の大戦争においてアーリア人のアルジュナと先住民のクリシュナが協力してアダルマに立ち向う姿は、アーリア人とドラヴィダ人が融合しつつダルマの国インドを作り上げていった歴史を見事に象徴している。この物語を精神的文化的なアイデンティティとして、インドの人々は誇りを持って自らの国をバーラトと呼んでいるのだ。

『バーラティア』は、このバーラトに「その土地、地域の」を表す「イア」を組み合わせた私の造語で、ヒンディー語で「インドの」を意味する『バーラティヤ』にもかけてある。中国発祥の陶磁器を英語で『チャイナ』と呼ぶ、あの感覚だ。

数千年に及ぶインド・チャクラ思想の歴史を、その伴走者として常に目撃し体現し続けただろうエクササイズに捧げるものとして、これほど相応しい名前はないと、私は思う。

そしてサブ・タイトルは『ダルマ・チャクラ・ドライブ』、漢字圏向けには『転法輪棒術』と名づけた。

これは文字通り、インド共和国の象徴である法輪の回転を意味する。それは同時に、ブッダによって、アショカ王によって、ヴィシュヌ・クリシュナによって、ガンディ翁によって、あるいは悪魔を倒すドゥルガー女神によって、人の世の正しい法を志向する全ての先人によって長いインドの歴史を通じて一貫して転回ドライブされ続けた、決して止まる事のないダルマ真理・正義の運動を象徴している。

インドの言葉では『ダルマ』は様々な意味を担ってきた。『世界を支え、保つもの』という原義から派生して、それは神の摂理であり、世界の法であり、人の世の正義であり、人としてこの世界のために為すべき本務義務を意味する言葉となった。それら全てを包含する『ダルマ』が衰退した時、世界の秩序は乱れ、人々の心は計り知れない苦悩に落ちるという。

そして考えてみれば、私達が生きる今、この現代ほど、『ダルマ』が危機に瀕した時代はないかも知れない。

神話によれば、ダルマが衰退し悪がはびこる時、ヴィシュヌ神がアヴァターラの姿をとって光臨し、スダルシャン・チャクラをもって悪を滅ぼし、ダルマを再興するという。だがダルマとは、果たして神から棚ボタ式に与えられるものだろうか。それは自らの努力と精進によって回復され、維持されるものではないだろうか。

それこそが、圧倒的なアダルマであるイギリスの植民地支配に対して、ダルマに徹した抵抗運動によって民心を糾合し独立を勝ち取ったインドが、その新たな門出に自らの象徴としてダルマ・チャクラを掲げた、真意ではなかっただろうか。

バーラティア。それは優れた武術的エクササイズだ。だが同時にそれは、単なるエクササイズの範疇を大きく超えた思想的運動としても、無限の価値と可能性を秘めている。

人が1本のダンダを握って、回転するダルマ・チャクラを空中に描き出す時、彼は数千年にわたるインド思想の深みを体現する。

それは車軸から展開する車輪であり、神の偉大な力であり、天照らすスーリヤであり、ブッダの覚りであり、菩薩の慈愛であり、ヴィシュヌ・クリシュナの破邪であり、アショカの回心であり、ガンディ翁の魂であり、女神のシャクティであり、ナタラージャの舞踏であり、神を招来する吉祥文様であり、ストゥーパであり、メール山であり、展開するプラクリティであり、中心から展開し転回する大宇宙の森羅万象、その全てなのだ。

私はこの棒術を、インド共和国のナショナル・エクササイズとしてオフィシャルに再評価して欲しいと、強く願う。

本家本元でそれを継承してきた彼らの想像も及ばないスケールで、この棒術はインドの魂そのものを象徴している。それは、ここまで読んでいただいた読者の皆さんには、説明の必要もないほどに明らかだろう。

そしてそれはインドにとどまらない。広く世界中の人々、個人的には特に仏教徒に向けて、ブッダの法輪を象徴するエクササイズとして、この棒術が普及していってほしい。

私の読みが正しければ、かつてそれは転法輪の技としてインド全土に普及していた可能性が高い。しかし現在、その由来を踏まえて自覚的に棒を回している仏教徒は、(私以外…)まったく存在しないと言ってもいい。それがとても残念に思えてならないのだ。

スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジアなど東南アジアのテーラワーダ仏教国では、ブッダの法輪は国民統合の求心的シンボルにもなっている。また前に紹介した様に、インドではこれらテーラワーダ諸国と連携したアンベードカル仏教が新勢力として台頭している。私はこれらの仏教徒たちに、この転法輪の棒術が普及していったら、と思い描いている。

かつてブッダの法輪を象徴していただろう回転技。それがもし、ブッダの時代の仏教に最も近いと言われる古式ゆかしいテーラワーダ仏教徒やインド本国の新仏教徒によって再興されたなら、これほど素晴らしい事はないと思う。

もちろん、日本を含めた東アジアの大乗仏教徒にも、大いに期待している。大乗化した仏教においてブッダの法輪の存在感は相対的に低下してはいるが、それが仏法を象徴する普遍的なシンボルである事に変わりはない。むしろ彼らにとっては、2500年前のブッダの転法輪に立ち帰ることによって、仏教の原点に思いを馳せる良いきっかけにもなるはずだ。

この棒術の際立った特徴は、長い棒をその真ん中で握り、自分の周りでただひたすら回し続ける、という点にある。そこには、誰か他者に向かって打ちかかるという意識が完全に欠落している。

長い棒の一方の端を両手で握ってその先端でもって相手に打ち掛かれば、それは大なる破壊力を持った武器となる。けれど棒の真ん中を片手で握って唯回しているだけでは、仮にその回転半径の中に入って当たったとしても、大した被害にはならない。

つまり、この棒の回転に特化した技は、「誰かを攻撃する」という意図を完全に放棄した『非暴力・不殺生』に徹している。そしてこの「棒の真ん中を握る」という特質は、ブッダの教えである『中道』とも重なり、合わせて仏教的なイデアを見事に体現している。

もちろんそれは単なる思想的な運動ではあり得ない。何しろ数千年にわたって戦士の身体能力を開発して来た技なのだから、その効能は折り紙付きだ。

それは思想性Spiritualityと優れた身体エクササイズという意味と価値をも併せ持った現代的なハイブリッド運動として、大きな可能性を秘めていると言えるだろう。


次回の投稿に続くはこちら ↓


この探求の旅を終えた2012年以降、一身上の事情や呼吸器系の病気で大きく体調を崩したことなどもあって、私自身のバーラティア普及活動は全く進んでいないのだが、今後もし、日本でも要望があるようなら(コロナ禍で難しい部分はあるけれど)可能な限り答えていきたいと思うので、本稿を読んで興味を持った方がいればコメント欄かTwitterアカウント、もしくはsangam.insのgmailアドレスまで連絡してほしい。


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