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インド武術から見た相撲の起源4

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四股と反閇とインド武術

◆醜(しこ)を踏むインドの神々

実際のところ、相撲に特徴的な四股土俵入り蹲踞股割りなどの身体所作&エクササイズが何時、どのような経緯で始まったのか、という点に関しては、明確な記録は見いだせず謎に包まれている。

しかし、例えば四股の原像はしこと言われ、大地を踏みしめてそこに潜むを追い払うしこを踏む』儀礼に由来するという説があるので、以下に引用しよう。

相撲で四股を踏むのはなぜか。どのような意味があるのか?

【資料2】『大相撲の事典』(沢田一矢編 東京堂出版 1995)p79-80 しこ[四股]「四股は本来は「醜」を踏みつける所作であった。土俵に上がる力士は、神聖な神の前で挨拶をしてから地中の悪霊を踏みつけるという、神事に発したものであるともいわれる。」

【資料3】『相撲大事典』(金指基原著 現代書館 2011)p135 しこ【四股】「古来、四股「醜(強いもの、醜いもの)」に通じ、四股を踏むことは地中の邪気を祓い大地を鎮める神事から発したものといわれ、「地踏み」「地固め」とも呼ばれた。現在も地鎮祭などで横綱土俵入りが行われ、その伝統を伝えている。」

レファレンス共同データベースより

これら「地中の悪霊を踏みつけ邪気を払う」というコンセプトは、先述した馬王堆漢墓地神力士が、大地の下でマカラ様の怪魚を踏みつけていた姿を思い起こさせるが、以前にも少し触れたように、実はインド教にも同じような思想が普遍的に見られる。

魔を踏みつけて踊るナタラージャ・シヴァ神像

上のナタラージャ神像は別名『踊るシヴァ神』とも呼ばれ、静的な彫刻だと分かり辛いが、魔を制圧し踏みつけながら踊っているシヴァ神を表している。この踊りは一般にタンダヴァTandavaと言われ、特にシヴァ派クリシュナ派で顕著な思想造形になっている。

クリシュナ・タンダヴァのイメージ:Youtubeより

上の画像はバガヴァタ・プラーナに記述された神話に基づくもので、そこでは、ヤムナー川に住み着いた蛇の悪魔カーリヤが毒を吐いて、水を飲む人々を苦しめるのに腹を立てたクリシュナが激しい格闘の末、カーリヤの頭を踏みつけてタンダヴァを踊る事によって、その身を引き裂いて勝利する。

この水中、蛇、それを踏みつけ制する戦士、という構図は、やはり馬王堆漢墓『水府において怪魚を踏む力士像』や、サンチー第3ストゥーパのトラナ横げたに描かれた『大蛇やマカラと戦う男』のイメージとも重なるものだろう。

魔を踏む四天王 増長天像、13世紀、奈良 法徳寺:奈良国立博物館Twitterより

この様な魔を踏みつけるスタイルは先に紹介した四天王像などでも共有されており、これもひょっとすると、本来的には動的な破邪の武踊・・であるタンダヴァのいちシーンを切り取って、象ったものだったのかも知れない。

これらインド的な魔を踏み制する武踊タンダヴァ相撲の四股をつなぐ、とも思われる所作が、先に紹介した動的ヨーガ・ヴャヤムの中に保存されている。下の動画を見ると、片足をゆっくりと上げてそれを側方、前方、後方に下ろしていくという、相撲の四股に似たムーブメントを多用している事が分かるだろう。

また西ベンガル州からオリッサ州にかけての東インドに伝承されるチャウChhauという武術的舞踏マーシャル・ダンスには、下の動画に見られる様に、片足を高く上げてから踏み下ろし歩くという四股にも通ずるムーブがよく保存されている。

Mayurbhanj Chhauの基本ポーズ『Dharan』:Facebookより

そこに頻出する仁王の決めポーズに似た構えも合わせると、このチャウもまたヴャヤム同様、古代マラ・ユッダやダヌルヴェーダの系譜を継ぐものだと考えられる。このチャウ・ダンスの伴奏やリズム、歩法や折々の所作・姿形はムエタイの礼拝儀礼『ワイクルー』にもよく似ており、その起源につながるものかも知れない。

日本の伝統武術を概観すると、主に中世以降から戦国時代に確立し江戸時代に大成した「戦場における組討(格闘)術」をベースとする体術武器技がほとんどだが、その中で相撲だけが極めて異質な世界観・方法論を掲げている事は、誰の目にも明らかだろう。

これまで言及して来た四股しこ蹲踞そんきょ土俵入りの形など極めて重心の低い『下半身を練る』運動所作や、180度開脚の股割りなど、他の伝統武術には余り見られない相撲界に特徴的なエクササイズ概念は、その多くが古代インド武術マラ・ユッダから受け継いだものだと考えると、非常に筋が通る気がする。

そもそも、冬はしばしば雪さえ降り積もる日本の気候の中で、
何故一年を通じて褌一丁の裸で行う格闘技が成立し得たのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それもインドという酷熱の大地で、マラ・ユッダが一年中褌裸で行われていたそのスタイルを忠実に模倣したものが、千数百年にわたって連綿と伝承され続けたのだと考えれば、十分に納得がいく話だ。

◆四股の起源は反閇か

相撲の四股=しこ踏みは、神道系の民族芸能や仏教系の儀軌でも多く共有されており、そこでは反閇へんばいなどと呼ばれる舞踏の形をとっている。

相撲で四股を踏むのはなぜか。どのような意味があるのか?

【資料7】『相撲の宇宙論 呪力をはなつ力士たち』(寒川恒夫編著 平凡社 1993)
p60-66 相撲の宗教性
 しこ(醜)と呼ばれる呪的足踏みは、ダダあるいはダンダといわれ、のちに仏教化して反閇ヘンバイと呼ばれた、初めは呪術者によって行われたが呪力の強さが求められるようになり力競べとなった、などの記述がある。

レファレンス共同データベースより

上の引用中、私の注意を引いたのが最後に出て来た『ダンダ』という呼称だった。この言葉は宗教的なニュアンスを濃厚に持った『聖杖』を意味するインド語と重なり、同時にそれは、一般的な『棒』や人の背骨など『棒状の身体部位』をも意味している。

原著者の寒川氏がどこからこのダンダを引っ張ってきたのかは確認できていないが、ひょっとして、によるシコ踏みをインド語の『ダンダ』として伝承していた、などという可能性も一瞬、脳裏をよぎってしまった。

まぁ、これは単なる偶然の一致に過ぎないかも知れないが、どちらにしても、相撲の四股反閇など日本の伝統的な『呪的しこ踏み所作』と、インド伝統の『破邪のタンダヴァ舞踏』は、極めて親近性が高いと言えるだろう。

反閇は袴などの衣装を着けて踊られる事が多く、下肢の動きが分かり難いのだが、ズボンに近い衣装で足の動きの分かり易い動画があったので下に貼っておく。

上の映像は剣舞けんばいと呼ばれる伝統舞踊で行われる反閇だが、ここでの脚の動きを見ると、ひざを曲げて足を上げて強めに踏み下ろす所作を繰り返す、ある種の『歩法』となっており、これが相撲の四股踏みの原像だというのは説得的だ。

これを先のチャウ・ダンスのムーブと比べてみるとその類似は明らかで、反閇の多くが鬼や天狗様の『異相』の仮面をかぶって踊られる事(これは胡人や西域人の異相につながる)、剣舞としての様式を保っている事、なども踏まえると、インド武踊タンダヴァと重なる部分は多い。

相撲節会と武者相撲

◆日本文明黎明期におけるインドの存在感と相撲節会

そもそも古墳時代から飛鳥時代、更には奈良、平安時代にかけて、日本という国家の基礎が築かれ成熟していったプロセスでは、大陸や半島からの文化的影響が主導的な役割を果たしていた事は誰の目にも明らかだ。

そして、これは仏教という文脈に限っても、だが、その中国に最初に仏教が伝来したのが紀元前後と言われ、3世紀の西晋時代には初めて仏教経典が伝来し、その後は主に西域系印度僧によって多くの経典が伝承・翻訳され、中国社会に根付いていった経緯がある(世界史の窓参照)。

先にも述べたように、この間、僧侶だけではなくインド文化を担う商人や武人なども、たとえ公式記録に残っていなかったとしても、少なからず大陸・半島の社会に流入していった事が十分に推測される。西暦4世紀頃の高句麗古墳壁画にあった『西域人』と称される異邦人の力士もまた、その様な歴史の延長線上に描かれたものだと理解されるべきだろう。

一方で、日本書紀によれば日本に初めて仏教が伝来したのは、(諸説あるが)552年に百済よりもたらされたと言われている。その後西暦600年前後に活躍した聖徳太子によって仏教は国教に近い地位に据えられ、国造りと並行して仏教が急速に全国に普及していった。

聖徳太子は西暦600年にその第1回が実施された遣隋使の創設でも知られているが、一般に言われる「大陸から優れた文物を導入するため」というその目的の半ば以上は『仏教の導入』にこそあり、それは『インド文化の受容』以外の何ものでもない。

聖徳太子の国家ヴィジョンの基本が、古代インドの仏教王として経典にも阿育王の名で記されたアショーカ大王の事績を範としていた事は諸々のデータから十分想定可能で、彼がインド天竺の仏教王国を来るべき国家社会の理想モデルとして奉じていたのは間違いないだろう。

ここで大変興味深いのは、先の日本書紀が完成したのが養老4年の西暦720年で、もうひとつの古事記の成立が和銅5年の西暦712年だということだ(Wikipedia等による)。これら日本国の国体その成立由来を示す神話体系は、全て仏教の洗礼を強烈に受けた後奈良時代初頭、仏教による鎮護国家を目指した天平文化が花開いた時期に成立しており、それはすなわち、これらの神話体系が、インド文化の洗礼の真っただ中から生まれた事を意味する。

その一方で、日本相撲の様式を基礎付けたと言われる、宮中での『天覧相撲』もまたその原型がほぼ同時代に生まれており、その後平安時代にかけて『相撲節会』へと大成していった歴史があった。

記紀にも相撲に関する記事が多く見られ、皇極天皇元年(642年)7月に健児に命じて相撲を取らせた記述を含め、相撲自体は古くから行われていることは確実であるが、相撲節会の正確な起源は史料の不足により明らかになっていない。養老3年(719年)に抜出司(相撲司の前身)が任命されていることから、この頃には何らかの形で宮中での相撲が相当頻度で行われていたものと思われる。
相撲節会と考えられる天覧相撲の初例は、聖武朝の天平6年7月7日(734年8月10日)である。この期間の相撲に関する記述は7月に偏っていることから、7月開催が慣例として固まっていたと思われる。7月7日は七夕の歌会が行われており、相撲節会は当初はこれに合わせて開催されていた。

相撲は元々神事、あるいは七夕の行事に付属した余興の一つとされていたが、時代が下るにしたがってより実際的な意味を帯びてくる。延暦11年(792年)、桓武天皇は律令制の徴兵制が機能不全となっていたのを改め、健児の制がはじまった。朝廷は健児の強化を督促したが、その手段として相撲技の訓練が取り入れられていた。健児の中でも選りすぐりの強者が宮中の守護に貢進されており、地方官が対象者を任地に囲い込んだ時には、違勅として勅命で免職されるなど厳しい措置が取られた。
弘仁12年(821年)には相撲節会が単独で内裏式中に加えられた。天長元年7月7日(824年8月5日)に平城上皇が崩御したことにより7月7日が国忌の日となり、7月16日に期日変更されて完全に七夕の諸行事から独立する。
天長10年(833年)の詔勅には「相撲の節はただに娯遊にあらず、武力を簡練する最もその中にあり」とある。貞観11年(866年)には節会の管理が式部省から兵部省に移管された。

Wikipedia: 相撲節会より

上の記述を見ると、この相撲節会こそが神事余興としてだけではなく、『練兵の訓練』としての相撲システムが確立大成していく契機となっていた流れが明らかだ。

その後、11世紀半ばには様々なアクシデントを契機に相撲節会は大幅に縮小されていき、平安時代末の1174年を最後に、宮中での相撲節会は途絶してしまったようだが、その伝統は各地の神社における神事相撲、武士の鍛錬としての武家相撲、さらに今日に続く民間の勧進相撲へと受け継がれていったと言われている(Wikipedia参照)。

同じ平安時代末期、1120年代以降に成立したとされる説話集『今昔物語』では、その第一巻に仏教にまつわる『天竺部』がおかれており、当時日本に流布していた影響力の大きな説話の代表が、仏教を核としたインド文化に由来する事が示されている。

また、昨今藤井聡太さん第八冠制覇の活躍で大いに盛り上がっている将棋だが、その起源は古代インドの『チャトランガ』という盤上ゲームというのが定説とされ、同じく中国を経由して日本に伝来した事を示す最古の記録が、やはり平安時代の遺物から発見されている。

将棋のルーツは、紀元前2000年ごろの古代インドのゲーム「チャトランガ」で、そこから世界各地に伝わったといわれています。 「チェス」や、中国の「シャンチー」、朝鮮半島の「チャンギ」、タイの「マークルック」、そして日本の「将棋」など、ルールや形態は違っても、みんな「チャトランガ」の子孫というわけです。

JTウェブサイトより

(将棋の)日本への伝来時期はさまざまな説がありますが、物証に乏しく、はっきりしたことは分かっていません。伝来ルートは①インド~中国~朝鮮~日本と、②インド~東南アジア~日本のどちらかといわれています。平安時代(794年~1185年)の将棋現状では、1993年(平成5年)に奈良県の興福寺境内から発掘された駒が最古といわれています。駒は16点あり、同時に【天喜6年】=1058年=と書かれた木簡(もっかん。細長い木片)が出土しました(正確には天喜6年7月26日)。

日本将棋連盟サイトより

チャトランガの世界的な広がりを見れば、古代世界において、インド文化の存在感その伝播力の強さが、いかに偉大だったかまざまざと実感できるだろう。その末流に日本の将棋が連なっている史実を踏まえれば、ほぼ同時期に確立した相撲にインド文化のDNAが入っていたとしても、全く不思議ではない。

以上の流れを総括すれば、幕末維新の国造りが欧米文化に先導されて行われた様に、古代日本の国造りや文化形成が、ある意味「インド文化に主導されて」行われていた側面は明らかであり、その真っただ中に伝統相撲の基礎も形作られた、という歴史は、何人も否定しえないだろう。

これは仏教文化のほとんどが大陸・半島経由の漢訳経典によって伝承され、古事記や日本書紀、また宮中や政権内部における公文書なども漢文ベースで記述されていたが為に見過ごされがちだが、日本国成立から初期発展の過程『インド文化』が果たした役割は、極めて大きかったのだ。

宮中行事の相撲節会については、江戸時代に模写された古い時代の絵図が現在でも宮内庁に保存されており、厳しい運用ルールがあってここでは引用掲載しないが、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムのサイトで閲覧する事ができる。そこに描かれた対峙する力士の姿を見れば、高句麗古墳手搏図とよく似ている事に驚くだろう。

まったく同じ構図の相撲節会図は窪寺紘一著『日本相撲大鑑』にも掲載されており、以下に引用しておく。その手の平を広げて片手を上にした対峙ポーズは、高句麗の手搏図やヴァジュラムシュティ、少林寺壁絵の対峙姿勢とも重ならないだろうか。

お互いに片手を上げて対峙する力士:飯田道夫著『相撲節会』より

上の絵図はおそらく江戸時代に出版された書籍を出典とすると思われるが、その引用記述に見られる『相撲金剛伝』という書名が気になる所だ。日本における『金剛力士像』の系譜は、奈良時代天平6年(西暦734年)法隆寺中門の塑像に始まりその後平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに造像され、戦国時代から江戸時代にまで至るという。

そこにおいて用いられた『力士』という呼称と実際に相撲を取る生身の力士文化の間に全く関係がなかった、という事は考えにくく、平安期に確立した相撲節会における力士の描写も、『金剛力士の決めポーズ』を意識したものではなかっただろうか。

現代の大相撲に至る伝統を確立・大成したのが、平安時代末まで行われていたこの相撲節会だった事はほぼ間違いないと思われるが、調べると当時の相撲は、現代相撲に見られるような立ち合い線の手前で蹲踞から手をついて行うシステムはとらず、常に上の画像資料から確認できるような立った状態での対峙から始まっていたようだ。

取組は現在のような立合いではなく、立ったまま姿勢をとり(練歩)、声をかけて(息を合わせて)組み合ってはじまる(手合)。勝負が決まると勝方は大声で喧嘩(さわがしく囃し立てること)をし、「立会舞」を披露する。

Wikipedia: 相撲節会より

私としては、この『立会舞』など相撲節会に付随する舞踊の中に、後世の立ち合い所作を構成する四股蹲踞原像が含まれており、それがインド武術のマラ・ユッダ武踊タンダヴァの流れを汲むものだったのではないか、と読んでいるのだが、残念ながらそれを裏付けるデータは、未だ見出されていないのが現状だ。

◆江戸元禄期における関口流柔術の影響

更に調べてみると、この相撲の立ち合い所作については江戸元禄期にある重要な変革が行われていた様で、その際に、現代に至る仕切り線の手前で蹲踞して平構えから拳をつけての立ち合い仕切りが生まれた様だ。

この立ち合いの大改革の背景には実は相撲の発展に応じた技術的変化 があった。このところは、三田村[1942: 141-45]が詳しい。紀州力士の鏡山は、 関口流の「ヤワラ」をとり入れ、それまでの単なる力技ではない「芸相撲」を流行させていく。小兵力士でも大兵を負かす技能相撲が発展していく。先手をとるために「待った」 を繰り返し、姿勢もそれまでの立った構えから、中段、下段の仕切り構えとなり、「犬つくばい」 に至る。

大相撲における立ち合いの文化論、西村秀樹著 PDFより

その中でも一世を風靡し、相撲の競技性にも多大な影響をもたらしたのが紀州藩(和歌山県)抱えの力士たちです。

元禄の頃(1688~1704)には鏡山沖之右衛門、荒磯浦之助、荒砂長太夫、相引森右衛門ら多士済々でしたが、その中でも鏡山は傑出した人で、関口流の柔の術相撲に応用したことが知られています。
何でも四十八手の裏表の九十六手を駆使して、それが力士の間に広まったとかで ”日本相撲中興の祖” の呼び声も―。

そもそも柔の術は相撲に近いものでしたが、江戸期には捕り物術等に応用されていた武芸であり、関口流は紀州藩が採用していた流派でした。

さらに鏡山は立ち合いにも革新を与え、それまでの立ち合いが文字通り両者が立っている状態から゛ヤッ゛と声を上げて組み合っていたものを、鏡山は現在の立ち合いと同じやうに両手を地面につけて下から立ったそうで、これが次第に一般化したと言われています。

星ヶ嶺、斬られて候:相撲競技の変容 ③紀州流相撲の影響 より

上ふたつの引用を通読すると、江戸相撲でもそれまでは平安期に大成した相撲節会と同様、関口流柔術の演武開始所作:Youtubeよりが行われていたが、この紀州力士の鏡山による関口流柔術の導入が、しゃがみ姿勢の立ち合いへと変革をもたらしたのは確かなようだ。

関口流柔術の演武開始所作:Youtubeより

上の動画は関口流柔術の演武の模様だが、確かにその開始部分には、蹲踞の姿勢から片方の握り拳を床に着ける所作が保存されており、これが相撲の仕切り立ち合いに転用された可能性は高い。

関口流柔術の「がっぷり四つ」:同Youtubeより

また関口流柔術には、上に見られるような『がっぷり四つ』に組んで袴帯をつかんだところから投げを打つ技も伝承されており、元から相撲との親近性は高いと言えるだろう。

しかし、この日本の柔術的な伝統自体、その起源を辿って行くと鎌倉の武家政権から始まり戦国期以降に発達したいわゆる『武者相撲』に行き着く、という話があり、武者相撲それ自体が、その大元は先に紹介した相撲節会に発する訳だ。

確かに蹲踞姿勢については現代剣道などでも共有されているが、これも元を辿れば平安時代に確立した宮中儀礼としての坐法に行き着くとの事で、突き詰めれば奈良時代から平安時代に確立した宮中文化が大元締めのソースという事になる。

そう考えていくと、この元禄期における立ち合いの変革は古式の再発見によるある種『先祖返り』だった、という見方もでき、結局のところ相撲へのインド武術の影響を否定する材料には、なり得なり得ないのだった。

日本の柔術各派の淵源である相撲節会が大成した平安時代において、インド文化が一定以上の存在感を放っていたことは間違いない。けれど伝統柔術では相撲に特有のエクササイズ概念は希薄であり、それが仏教的な反閇・神事方面から流入した可能性も強いが、その詳細は依然として不明なのだ。

大地を踏みつける四股180度開脚の股割りなど相撲に特徴的なエクササイズ概念が「インド武術に由来する」という私の読み筋は、依然としてひとつの有力な仮説だと思われるが、もしそうなら、それがいつ、どのような経緯で伝来し受容されたのか。

という事で、本節での考察は次章へとつながっていく。

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