インド武術から見た相撲の起源4
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四股と反閇とインド武術
◆醜(しこ)を踏むインドの神々
実際のところ、相撲に特徴的な四股、土俵入り、蹲踞、股割りなどの身体所作&エクササイズが何時、どのような経緯で始まったのか、という点に関しては、明確な記録は見いだせず謎に包まれている。
しかし、例えば四股の原像は醜と言われ、大地を踏みしめてそこに潜む魔を追い払う『醜を踏む』儀礼に由来するという説があるので、以下に引用しよう。
これら「地中の悪霊を踏みつけ邪気を払う」というコンセプトは、先述した馬王堆漢墓の地神力士が、大地の下でマカラ様の怪魚を踏みつけていた姿を思い起こさせるが、以前にも少し触れたように、実はインド教にも同じような思想が普遍的に見られる。
上のナタラージャ神像は別名『踊るシヴァ神』とも呼ばれ、静的な彫刻だと分かり辛いが、魔を制圧し踏みつけながら踊っているシヴァ神を表している。この踊りは一般に『タンダヴァ』と言われ、特にシヴァ派とクリシュナ派で顕著な思想造形になっている。
上の画像はバガヴァタ・プラーナに記述された神話に基づくもので、そこでは、ヤムナー川に住み着いた蛇の悪魔カーリヤが毒を吐いて、水を飲む人々を苦しめるのに腹を立てたクリシュナが激しい格闘の末、カーリヤの頭を踏みつけてタンダヴァを踊る事によって、その身を引き裂いて勝利する。
この水中、蛇、それを踏みつけ制する戦士、という構図は、やはり馬王堆漢墓の『水府において怪魚を踏む力士像』や、サンチー第3ストゥーパのトラナ横げたに描かれた『大蛇やマカラと戦う男』のイメージとも重なるものだろう。
この様な魔を踏みつけるスタイルは先に紹介した四天王像などでも共有されており、これもひょっとすると、本来的には動的な破邪の武踊であるタンダヴァのいちシーンを切り取って、象ったものだったのかも知れない。
これらインド的な魔を踏み制する武踊タンダヴァと相撲の四股をつなぐ、とも思われる所作が、先に紹介した動的ヨーガ・ヴャヤムの中に保存されている。下の動画を見ると、片足をゆっくりと上げてそれを側方、前方、後方に下ろしていくという、相撲の四股に似たムーブメントを多用している事が分かるだろう。
また西ベンガル州からオリッサ州にかけての東インドに伝承される『チャウ』という武術的舞踏には、下の動画に見られる様に、片足を高く上げてから踏み下ろし歩くという四股にも通ずるムーブがよく保存されている。
そこに頻出する仁王の決めポーズに似た構えも合わせると、このチャウもまたヴャヤム同様、古代マラ・ユッダやダヌルヴェーダの系譜を継ぐものだと考えられる。このチャウ・ダンスの伴奏やリズム、歩法や折々の所作・姿形はムエタイの礼拝儀礼『ワイクルー』にもよく似ており、その起源につながるものかも知れない。
日本の伝統武術を概観すると、主に中世以降から戦国時代に確立し江戸時代に大成した「戦場における組討(格闘)術」をベースとする体術と武器技がほとんどだが、その中で相撲だけが極めて異質な世界観・方法論を掲げている事は、誰の目にも明らかだろう。
これまで言及して来た四股や蹲踞、土俵入りの形など極めて重心の低い『下半身を練る』運動所作や、180度開脚の股割りなど、他の伝統武術には余り見られない相撲界に特徴的なエクササイズ概念は、その多くが古代インド武術から受け継いだものだと考えると、非常に筋が通る気がする。
そもそも、冬はしばしば雪さえ降り積もる日本の気候の中で、
何故一年を通じて褌一丁の裸で行う格闘技が成立し得たのか?
それもインドという酷熱の大地で、マラ・ユッダが一年中褌裸で行われていたそのスタイルを忠実に模倣したものが、千数百年にわたって連綿と伝承され続けたのだと考えれば、十分に納得がいく話だ。
◆四股の起源は反閇か
相撲の四股=醜踏みは、神道系の民族芸能や仏教系の儀軌でも多く共有されており、そこでは反閇などと呼ばれる舞踏の形をとっている。
上の引用中、私の注意を引いたのが最後に出て来た『ダンダ』という呼称だった。この言葉は宗教的なニュアンスを濃厚に持った『聖杖』を意味するインド語と重なり、同時にそれは、一般的な『棒』や人の背骨、脚など『棒状の身体部位』をも意味している。
原著者の寒川氏がどこからこのダンダを引っ張ってきたのかは確認できていないが、ひょっとして、脚による醜踏みをインド語の『ダンダ』として伝承していた、などという可能性も一瞬、脳裏をよぎってしまった。
まぁ、これは単なる偶然の一致に過ぎないかも知れないが、どちらにしても、相撲の四股や反閇など日本の伝統的な『呪的醜踏み所作』と、インド伝統の『破邪のタンダヴァ舞踏』は、極めて親近性が高いと言えるだろう。
反閇は袴などの衣装を着けて踊られる事が多く、下肢の動きが分かり難いのだが、ズボンに近い衣装で足の動きの分かり易い動画があったので下に貼っておく。
上の映像は剣舞と呼ばれる伝統舞踊で行われる反閇だが、ここでの脚の動きを見ると、ひざを曲げて足を上げて強めに踏み下ろす所作を繰り返す、ある種の『歩法』となっており、これが相撲の四股踏みの原像だというのは説得的だ。
これを先のチャウ・ダンスのムーブと比べてみるとその類似は明らかで、反閇の多くが鬼や天狗様の『異相』の仮面をかぶって踊られる事(これは胡人や西域人の異相につながる)、剣舞としての様式を保っている事、なども踏まえると、インド武踊と重なる部分は多い。
相撲節会と武者相撲
◆日本文明黎明期におけるインドの存在感と相撲節会
そもそも古墳時代から飛鳥時代、更には奈良、平安時代にかけて、日本という国家の基礎が築かれ成熟していったプロセスでは、大陸や半島からの文化的影響が主導的な役割を果たしていた事は誰の目にも明らかだ。
そして、これは仏教という文脈に限っても、だが、その中国に最初に仏教が伝来したのが紀元前後と言われ、3世紀の西晋時代には初めて仏教経典が伝来し、その後は主に西域系の印度僧によって多くの経典が伝承・翻訳され、中国社会に根付いていった経緯がある(世界史の窓参照)。
先にも述べたように、この間、僧侶だけではなくインド文化を担う商人や武人なども、たとえ公式記録に残っていなかったとしても、少なからず大陸・半島の社会に流入していった事が十分に推測される。西暦4世紀頃の高句麗古墳壁画にあった『西域人』と称される異邦人の力士もまた、その様な歴史の延長線上に描かれたものだと理解されるべきだろう。
一方で、日本書紀によれば日本に初めて仏教が伝来したのは、(諸説あるが)552年に百済よりもたらされたと言われている。その後西暦600年前後に活躍した聖徳太子によって仏教は国教に近い地位に据えられ、国造りと並行して仏教が急速に全国に普及していった。
聖徳太子は西暦600年にその第1回が実施された遣隋使の創設でも知られているが、一般に言われる「大陸から優れた文物を導入するため」というその目的の半ば以上は『仏教の導入』にこそあり、それは『インド文化の受容』以外の何ものでもない。
聖徳太子の国家ヴィジョンの基本が、古代インドの仏教王として経典にも阿育王の名で記されたアショーカ大王の事績を範としていた事は諸々のデータから十分想定可能で、彼がインドの仏教王国を来るべき国家社会の理想モデルとして奉じていたのは間違いないだろう。
ここで大変興味深いのは、先の日本書紀が完成したのが養老4年の西暦720年で、もうひとつの古事記の成立が和銅5年の西暦712年だということだ(Wikipedia等による)。これら日本国の国体その成立由来を示す神話体系は、全て仏教の洗礼を強烈に受けた後の奈良時代初頭、仏教による鎮護国家を目指した天平文化が花開いた時期に成立しており、それはすなわち、これらの神話体系が、インド文化の洗礼の真っただ中から生まれた事を意味する。
その一方で、日本相撲の様式を基礎付けたと言われる、宮中での『天覧相撲』もまたその原型がほぼ同時代に生まれており、その後平安時代にかけて『相撲節会』へと大成していった歴史があった。
上の記述を見ると、この相撲節会こそが神事や余興としてだけではなく、『練兵の訓練』としての相撲システムが確立大成していく契機となっていた流れが明らかだ。
その後、11世紀半ばには様々なアクシデントを契機に相撲節会は大幅に縮小されていき、平安時代末の1174年を最後に、宮中での相撲節会は途絶してしまったようだが、その伝統は各地の神社における神事相撲、武士の鍛錬としての武家相撲、さらに今日に続く民間の勧進相撲へと受け継がれていったと言われている(Wikipedia参照)。
同じ平安時代末期、1120年代以降に成立したとされる説話集『今昔物語』では、その第一巻に仏教にまつわる『天竺部』がおかれており、当時日本に流布していた影響力の大きな説話の代表が、仏教を核としたインド文化に由来する事が示されている。
また、昨今藤井聡太さん第八冠制覇の活躍で大いに盛り上がっている将棋だが、その起源は古代インドの『チャトランガ』という盤上ゲームというのが定説とされ、同じく中国を経由して日本に伝来した事を示す最古の記録が、やはり平安時代の遺物から発見されている。
チャトランガの世界的な広がりを見れば、古代世界において、インド文化の存在感その伝播力の強さが、いかに偉大だったかまざまざと実感できるだろう。その末流に日本の将棋が連なっている史実を踏まえれば、ほぼ同時期に確立した相撲にインド文化のDNAが入っていたとしても、全く不思議ではない。
以上の流れを総括すれば、幕末維新の国造りが欧米文化に先導されて行われた様に、古代日本の国造りや文化形成が、ある意味「インド文化に主導されて」行われていた側面は明らかであり、その真っただ中に伝統相撲の基礎も形作られた、という歴史は、何人も否定しえないだろう。
これは仏教文化のほとんどが大陸・半島経由の漢訳経典によって伝承され、古事記や日本書紀、また宮中や政権内部における公文書なども漢文ベースで記述されていたが為に見過ごされがちだが、日本国成立から初期発展の過程で『インド文化』が果たした役割は、極めて大きかったのだ。
宮中行事の相撲節会については、江戸時代に模写された古い時代の絵図が現在でも宮内庁に保存されており、厳しい運用ルールがあってここでは引用掲載しないが、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムのサイトで閲覧する事ができる。そこに描かれた対峙する力士の姿を見れば、高句麗古墳の手搏図とよく似ている事に驚くだろう。
まったく同じ構図の相撲節会図は窪寺紘一著『日本相撲大鑑』にも掲載されており、以下に引用しておく。その手の平を広げて片手を上にした対峙ポーズは、高句麗の手搏図やヴァジュラムシュティ、少林寺壁絵の対峙姿勢とも重ならないだろうか。
上の絵図はおそらく江戸時代に出版された書籍を出典とすると思われるが、その引用記述に見られる『相撲金剛伝』という書名が気になる所だ。日本における『金剛力士像』の系譜は、奈良時代天平6年(西暦734年)法隆寺中門の塑像に始まりその後平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに造像され、戦国時代から江戸時代にまで至るという。
そこにおいて用いられた『力士』という呼称と実際に相撲を取る生身の力士文化の間に全く関係がなかった、という事は考えにくく、平安期に確立した相撲節会における力士の描写も、『金剛力士の決めポーズ』を意識したものではなかっただろうか。
現代の大相撲に至る伝統を確立・大成したのが、平安時代末まで行われていたこの相撲節会だった事はほぼ間違いないと思われるが、調べると当時の相撲は、現代相撲に見られるような立ち合い線の手前で蹲踞から手をついて行うシステムはとらず、常に上の画像資料から確認できるような立った状態での対峙から始まっていたようだ。
私としては、この『立会舞』など相撲節会に付随する舞踊の中に、後世の立ち合い所作を構成する四股や蹲踞の原像が含まれており、それがインド武術のマラ・ユッダや武踊タンダヴァの流れを汲むものだったのではないか、と読んでいるのだが、残念ながらそれを裏付けるデータは、未だ見出されていないのが現状だ。
◆江戸元禄期における関口流柔術の影響
更に調べてみると、この相撲の立ち合い所作については江戸元禄期にある重要な変革が行われていた様で、その際に、現代に至る仕切り線の手前で蹲踞して平構えから拳をつけての立ち合い仕切りが生まれた様だ。
上ふたつの引用を通読すると、江戸相撲でもそれまでは平安期に大成した相撲節会と同様、関口流柔術の演武開始所作:Youtubeよりが行われていたが、この紀州力士の鏡山による関口流柔術の導入が、しゃがみ姿勢の立ち合いへと変革をもたらしたのは確かなようだ。
上の動画は関口流柔術の演武の模様だが、確かにその開始部分には、蹲踞の姿勢から片方の握り拳を床に着ける所作が保存されており、これが相撲の仕切り立ち合いに転用された可能性は高い。
また関口流柔術には、上に見られるような『がっぷり四つ』に組んで袴帯をつかんだところから投げを打つ技も伝承されており、元から相撲との親近性は高いと言えるだろう。
しかし、この日本の柔術的な伝統自体、その起源を辿って行くと鎌倉の武家政権から始まり戦国期以降に発達したいわゆる『武者相撲』に行き着く、という話があり、武者相撲それ自体が、その大元は先に紹介した相撲節会に発する訳だ。
確かに蹲踞姿勢については現代剣道などでも共有されているが、これも元を辿れば平安時代に確立した宮中儀礼としての坐法に行き着くとの事で、突き詰めれば奈良時代から平安時代に確立した宮中文化が大元締めのソースという事になる。
そう考えていくと、この元禄期における立ち合いの変革は古式の再発見によるある種『先祖返り』だった、という見方もでき、結局のところ相撲へのインド武術の影響を否定する材料には、なり得なり得ないのだった。
日本の柔術各派の淵源である相撲節会が大成した平安時代において、インド文化が一定以上の存在感を放っていたことは間違いない。けれど伝統柔術では相撲に特有のエクササイズ概念は希薄であり、それが仏教的な反閇・神事方面から流入した可能性も強いが、その詳細は依然として不明なのだ。
大地を踏みつける四股や180度開脚の股割りなど相撲に特徴的なエクササイズ概念が「インド武術に由来する」という私の読み筋は、依然としてひとつの有力な仮説だと思われるが、もしそうなら、それがいつ、どのような経緯で伝来し受容されたのか。
という事で、本節での考察は次章へとつながっていく。