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第三章 チャクラを掲げる者はインドを制す:クリシュナの台頭とインドラの失権

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紀元前1000年以降、アーリア人はガンジス川上流域、現在のデリー周辺に進出し、そこに定着した。彼らはヴェーダが優越するバラモン教を確立しヴァルナ・カーストの身分制を定める一方、先住民の様々な文化要素を取り入れ、急速に土着化が進んでいった。それは、侵略の時代に一方的に制圧された先住民文化の復権であり、同時にインドラの失権の始まりでもあった。

そして紀元前800年頃、後に神格化されるクリシュナがマトゥラーの地に現れる。本来彼は牛飼いを生業とする先住民ヤーダヴァ族出身の宗教指導者だったようだ。クリシュナとは肌の黒い者を意味する。そう彼は、かつてインドラ全盛の時代に徹底的に侮蔑の対象になったダスユの末裔なのだ。

ここに先住民の逆襲が始まる。クリシュナは当時確立していた『伝統的』なインドラへの信仰を否定し、人々に新しい自然神の信仰を説いた。言わば、侵略者によって押しつけられた権威に背く宗教改革者であったと言っていい。

彼の教えは先住民を中心として多くの人々に受け入れられ、北インドに確固たる地盤を形成して行く。それは反インドラの運動であると同時に、破壊と侵略に根ざしたアーリア文化に対する、強烈なアンチテーゼとなった。

だがクリシュナは、インドラへの信仰は否定したがヴェーダやカーストの権威は否定しなかった。実在のクリシュナがどうだったかは分からない。けれど少なくとも聖典や物語に記述され現代へと伝わったクリシュナは、ヴェーダやカースト・システムのむしろ推進者として機能していったのだ。その点が後に、同じ宗教改革者であるブッダと大きく運命を分ける事になる。

当初、圧倒的な戦力差によって一方的にアーリア人に蹂躙された先住民ではあったが、この頃になると積極的にアーリアの優れた物質文明を吸収し、アーリア部族に対抗できるような先住民部族が台頭してくる。恐らく、ヤーダヴァ族もそんな有力部族のひとつだったのだろう。

それはカラード有色人種の国日本が明治維新によって西洋化を成し遂げ、やがて大国として欧米列強と伍して世界大戦に参戦するようになったプロセスと重なるかもしれない。

神話によれば、クリシュナの反逆に激怒したインドラ神は大雨を降らしてヤーダヴァ族を滅ぼそうとした。それに対してクリシュナは、ゴーワルダン山を片手で持ち上げて傘とし、人々をその雨から守ったという。

ゴーワルダン山を片手小指で支えて傘にするクリシュナ:現地のポスター

このクリシュナが後にヴィシュヌの化身として取り入れられ、クリシュナ神となって神々のパンテオンの頂点を極める事になる。その過程で重要な役割を果たしたのが、国民的抒事詩マハバーラタだ。

この物語はアーリアの有力部族バーラタ族の大戦争を縦軸に、様々な神話的なエピソードを横軸に展開していく。中でもクリシュナがらみで重要なのがバガヴァッド・ギータだ。

バガヴァッド・ギータ

正に大戦争が勃発する寸前、ラタ戦車に乗って敵軍と対峙したパンダヴァ家の英雄アルジュナは、同族同士が殺しあう戦争に懐疑を抱き戦意を喪失してしまう。御者に扮したクリシュナはそれを見て彼を叱責し、激励し、奮い立たせる。その過程で、クリシュナは自らの神としての本質を顕し、アルジュナに対して世界の理法について解き明かすのだった。

アーリア系の有力部族バーラタの戦士であるアルジュナに対し、肌の黒い先住民であるクリシュナが御者と言う目下の立場をとりつつ、至高神としてアルジュナの上に立って教え諭すというこの構図は、当時のアーリア人と先住民の屈折した関係性が反映されていて、非常に興味深い。

その場面で重要な役割を果たしたのが、ダルマという言葉だった。ダルマとは正義であり、法であり、そして人として果たさなければならない義務(本務)を意味する。

私たち日本人がダルマと聞くと、まず達磨さんや仏法をイメージするが、インド語としての本来の意味は『支え、保持するもの』であり、そこから上記の様な世界の秩序を維持するために必要な様々な意味が派生したと言う。

クリシュナはここにダルマの守護者としての役割を見事に演じていく。

興味深い事に、マハバーラタや付随するクリシュナ神話のあちこちに、クリシュナがスダルシャン・チャクラを投じて敵と戦うシーンが出てくる。走るための車輪がどうやって投擲武器に変わったのか、その過程はイマイチ分からないが、インドには昔からチャクラムというリング型の投擲武器が存在する。チャクラという言葉が車輪と同時に円盤をも意味する事から、両者の間で混同が起きたのかもしれない。

車輪そのものを投じるクリシュナの描写もある。スポークは6本だ:Krishna.comより

どちらにしても、このクリシュナとダルマ、そして投擲武器スダルシャン・チャクラとの結びつきがヴィシュヌのアヴァターラに取り込まれた時、破邪の究極兵器、世界を守護するスダルシャン・チャクラとして昇華されていったのだろう。

クリシュナとアルジュナがラタ戦車に乗る姿は彼らの代名詞となり、これがやがてインドラの時代の天空のラタ戦車とも重なり合って、ジャガンナート寺院に代表されるラタ・ヤットラ祭へとつながっていく。反対に、かつてはラタ戦車を駆って戦場で華々しく戦ったインドラは、ラタの所有権を奪われいつの間にか象に乗る姿として描かれる様になる。

アイラーヴァタ象に乗るインドラ神:ソムナートプル

これは、チャクラ(あるいはラタ戦車)を神威の象徴とするインド世界におけるインドラの失権を、見事に表していた。その後のインド神話の中では、インドラは一方で神の中の神と呼ばれながらも、実際にはシヴァやヴィシュヌを引き立てる道化回しの役を演じる様になっていくのだ。

一方、ヴィシュヌ神のもうひとつの重要な化身にラーマがある。彼はマハバーラタと並び称される叙事詩、ラーマヤーナの主人公で、この物語はタイなどの東南アジアの文化にも大きな影響を与えているのだが、彼もまた、ブッダより少し前に実在した肌の黒い先住民の王子だと言われる。

つまりヴィシュヌ神とは、タイトルだけはアーリア・ヴェーダの権威から引っ張ってきているが、その実質はほとんど先住民由来なのだ。

同じ事は、もうひとりの最高神シヴァについても言える。インダス文明に瞑想するヨーギの肖像がある事はすでに触れた。ルドラ・シヴァは本来ヴェーダの神名なのだが、インダスの印章に刻まれた聖獣に囲まれて瞑想する獣類の王パシュパティこそが、シヴァの実質的な起源だと言われている。

インダスの印章、動物に囲まれ瞑想するヨーギ:Wikipediaより

そこではリグ・ヴェーダによって侮蔑の対象になった先住民の生殖器への信仰がシヴァ・リンガ(男根)として、地母神への信仰がパールヴァーティなど神姫の信仰として復活し、シヴァの首には、かつてインドラによって悪魔として殺戮された蛇が象徴的に巻かれる。それは同時にナーガ神として、あるいはヴィシュヌやブッダを守護する神的コブラとしても復活を果たすのだった。

瞑想するシヴァ神。首には蛇が巻かれている:リシケシュ
ブッダを守護する蛇神ムチャリンダ:ブッダガヤ

こうして見ると、シヴァもヴィシュヌもその他のイデアも、共にタイトルだけはアーリア・ヴェーダから借りてはいるが、その実質はほとんど先住民に由来する事が分かるだろう。

一般にはアーリア・ヴェーダの文化こそがインドの宗教性の源のように言われているが、私に言わせればそれは「いかにも片手落ち」の誹りを免れない。

インドの宗教性の根源になったのはむしろ征服された先住民の感性であり、思想であり、それがアーリア人という全く異質な侵略者と衝突し、徹底的に蹂躙され否定され屈辱にまみれた、その複雑深遠な化学反応の中からこそ、インドの気高く深い精神性が生まれたのだと。

その証拠に、現在ヒンドゥ思想において重要視されている凡そ全ての経典が、アーリア人が先住民と融合する過程で先住民の文化的影響下に成立している。

リグ・ヴェーダをはじめとした初期の純粋なアーリア・ヴェーダ文献は、現在では祭式における単なる呪文程度の役割しかなく、思想的にはほとんど重要ではない。精神文化を創るのは強者ではなく、敗者の魂からのインスパイアなのだ。

それは現代社会においても明らかに見て取る事が出来るだろう。

唯一の超大国として現在でも世界を牛耳っているアメリカに、どのようなオリジナルの精神文化があるだろうか。ひたすら先住民の社会を破壊し、侵略し、黒人を奴隷化し、他者から奪う事によって拡大を遂げたアメリカの文化に、人の魂を打つような普遍的で高度な精神性が見出せるだろうか。

ロスに象徴される西海岸では世界中の宗教思想やその実践をまるで展示場のように見ることができると言うが、禅、チベット仏教、ヴィパッサナー、ヨーガ、タイチーなど、その全ては非西欧世界に由来している。チベット仏教については、中国共産党の侵略によってインドに亡命したダライ・ラマに象徴される様に、正に敗者の境涯から出発し、今では世界中の良心を惹きつけている。

また、20世紀の偉大な実践的思想家を見れば、インド独立の父ガンディを始め南アフリカのネルソン・マンデラ、アメリカのキング牧師など、かつてカラードとして蔑まれた人々が筆頭に上がる。アメリカの徹底的な破壊を被ったヴェトナムからはティク・ナット・ハンという優れた仏教者が現れ、その思想が多くの欧米人を魅了している事も忘れてはならないだろう。

また、かつて一方的に殺戮されたアメリカ先住民の思想は、地球環境問題の深刻化と共に、新たなる地球意識・共生社会への指針として再評価されている。

現在の欧米を中心とした世界秩序の中で、人々の心を捉えている思想の多くが、かつて西欧人によって発見され、一度は野蛮で劣った者として否定された人々の伝統から生まれている事実がある。

対照的に、純粋なアーリア思想として残されているリグ・ヴェーダの神々への賛歌からは、非常に単細胞かつ能天気な、例えて言えばインディアンと戦い続けるアメリカの騎兵隊やカウボーイの様な(正にアフガン・イラク戦争時のブッシュその様な!)メンタリティしか見えてこない。

この野蛮で単純な侵略者のメンタリティが、侵略されたドラヴィダ先住民の深遠な宗教性によって啓発され薫陶されていく過程こそが、ヴェーダ教がバラモン教になり、やがてヒンドゥ教へと変質していく過程だったのだ。

その象徴こそが、バガヴァッド・ギータでアルジュナを教え導く神クリシュナに他ならない。

このマハバーラタは、クリシュナがアルジュナに向かって戦士の本分ダルマとして全力で戦うことを促し、全編において戦士の武勇を称賛するエートスに満ちた物語だが、話はそこで終わらず、最後にはクリシュナ含め全ての登場人物が悲惨な最期を遂げ、実は戦争の虚しさ愚かしさを強く印象付ける結末になっている。

この辺りにも、単細胞に侵略と収奪を賛美するリグ・ヴェーダのインドラとの対比が鮮明に表れている。それは紛れもなく、クリシュナによって象徴されるインド先住民たちの感性だったのだろう。

こうしてリグ・ヴェーダの武神インドラは最高神の地位を完全に追われ、やがて単なる東方の守護神へと落ちぶれてしまう。東征の軍神として崇められた過去の栄光を懐かしむように、彼は今でもひとり、東の空を見つめ続けているのだ。

侵略する武神インドラを捨てたバラモン・ヒンドゥ教は、仏教やジャイナ教の影響を受けながらアヒンサー(非暴力・不殺生)の思想を成熟させ、それは遥か後世にマハトマ・ガンディの対英独立運動として結実する。

彼が信奉する神はクリシュナとラーマであり、バガヴァッド・ギーターを人生の指針とし、最後の言葉は「おおラーマよ」だった。

侵略者であるイギリス人の支配に抗して立ち上がった彼の生き様は、どこかインドラ信仰を拒否したというクリシュナの姿に重ならないだろうか。

インド独立の父、マハトマ・ガンディ:Wikipediaより

彼の生き様その系譜は、やがてマンデラ師やキング牧師へとつながっていき、欧米、もしくは白人キリスト教徒を中心とした世界秩序に対する、重要なアンチ・テーゼとして機能する事となった。

ひたすら侵略し破壊し略奪するしか能のない単細胞な思想や神は、秩序が確立し世界が成熟期に入れば無用の長物になるのが歴史の必然、普遍的なダルマなのかも知れない。


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