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アショカ大王とカリンガの戦士たち

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タミルでの取材を終えた私は一路帰国の途についた。そして旅行中に得た膨大な情報を整理し、ネット上に『サンガム印度武術研究所』名義で『印度武術王国』というホームページを開設して、全ての情報を公開した。
(当初は「Yahoo!ジオシティーズ」を使っていたが閉鎖されてしまった為、現在は「はてなブログ」に移行中)

そしてアルバイトで資金を作ると、再びインドへと旅立った。今回は日本から樫の棒を携えての武術行脚だった。もちろん、念願のビデオ・カメラも忘れてはいない。

最初の目的地はオリッサ州。そこはインドの仏教史とも深い因縁を持った、アショカ王の「カリンガの戦い」が行われた舞台だった。

話は紀元前6世紀に遡る。ブッダの時代、北インドのガンジス川中流域は16大国と呼ばれる国々によって割拠されていた。それらの国々は共和制をとる国と王制をとる国に大きく分けることが出来るが、やがて後者の中からマガダ国が台頭し、アジャータシャトル王の時代に周辺諸国を統一してガンジス中流域の覇者となった。その後、内陸の不便なラージャグリハから水運に恵まれたパータリプトラ(現パトナ)に首都が移され、ここにその後のマガダ国繁栄の基礎が築かれた。

やがてブッダの死からおよそ150年、このマガダ国の辺境に兵を挙げたチャンドラグプタは、当時の支配者ナンダ朝をパータリプトラに破り、北インドを征服する。勢いに乗った彼は、怒涛の様に北西部ガンダーラのギリシャ人勢力を打ち破り、さらにデカン方面にも進軍してこれを平定し、亜大陸のほとんどを統一する。ここにインド史上初めての統一王朝、広大なマウリヤ帝国が誕生したのだ。

そして紀元前268年、第三代として即位したアショカ王は、祖父チャンドラグプタ、父ビンドゥサーラの帝国建設の遺業を引き継ぎ、最後の抵抗勢力「カリンガ国」に侵攻する。

戦いは凄惨なものとなった。その暴虐な性格によって自国民からさえも恐れられていたアショカ王の攻撃は苛烈を極め、一方、マウリア朝より遥かに長い歴史を持つ大国カリンガは、当時世界最強とも謳われたアショカ軍に対して、果敢にも徹底抗戦で応じたからだ。

目を覆うような殲滅戦の末、アショカ軍はついにカリンガを征服した。伝承によれば犠牲者は民間人を含めて数十万に達したという。

勝利に酔いしれるはずのアショカ王は、しかし死屍累々たる戦場に立って深く後悔し懺悔する事になる。それは余りにも無益な殺戮であり大きな悲嘆であり、取り返しのつかない惨禍であった。やがて彼は、ひとりの僧侶との出会いによって、劇的に篤信の仏教徒へと変貌したのだった。

彼は国の政策を武力による覇権から法と徳による統治へと180度転換した。そして仏教に基づいたダルマの理念を普及するため、ブッダ所縁の地に仏舎利塔ストゥーパを建立し、広大な帝国全土に詔勅を刻み、法の車輪をシンボライズした石柱スタンバを建てていった。

インドの国章にもなっているアショカ石柱のライオン・ヘッド

残念ながらアショカ王の死後、帝国は急速に崩壊しダルマの政治もまた滅び去った。けれどもその理念は、2200年のちに見事に蘇る事となった。

20世紀初頭、イギリスの過酷な植民地支配に苦しむインドに、マハトマ・ガンディが現れた。彼は『サティヤ・グラハ(真理の把持)』の名のもと、インドの伝統的思想であるアヒンサー(非暴力)の理念を掲げてイギリスに対して不服従の戦いを挑み、長い苦闘の末、1947年ついに独立を勝ち取ったのだ。

新生インド共和国の国章にはアショカ石柱から採られたライオン・ヘッドが選ばれ、国旗の中央にはダルマ・チャクラが高々と掲げられた。

中央にダルマチャクラ(法輪)を据えたインド国旗

インド語では否定詞のアを付けると反対語になり、ダルマの反対はアダルマで表される。法輪を掲げた新しい国旗。それは欧米列強による植民地支配というアダルマ不正義、悪に対するダルマ法と正義の勝利を、高らかに宣言するものでもあったのだろう。

オリッサ州の州都ブバネシュワルの近郊ダウリの地に、アショカ碑文のひとつが今でも残っている。そして1972年、ここにアショカ王の事跡を記念して、日本山妙法寺によって世界平和祈念塔、シャンティ・ストゥーパが建立された。

日本山妙法寺は藤井日達お上人によって創設された日蓮宗系の宗門で、団扇太鼓を叩きながら南無妙法蓮華経を唱えて世界中で平和運動を展開している。その運動の中心になるのが、このストゥーパ仏舎利塔の建立だった。

オリッサ州ダウリのシャンティ・ストゥーパ

ストゥーパ、それは元々北インドのクシナガラで入滅したブッダを荼毘に付した、その遺灰を埋葬した土饅頭に起源を発し、やがてそれが礼拝の対象として荘厳され巨大化していったものだ(故に日本語では「仏舎利塔」)。アショカ王以降急速にインド世界に広がり、ここダウリのものは古代の様式を忠実に再現したデザインで知られている。

アショカ碑文の上に彫られた象と遠景のシャンティ・ストゥーパ

10年前にダウリの地を訪ねて日本山に滞在し、10日間ほどお勤めを経験した事がある私は、その時に前述のアショカ王の事跡について学び、カリンガ国についても予備知識を持っていた。そして考えたのだ。圧倒的な戦力差を省みずに、殺されても殺されても、ひるまずに戦いを挑んで行ったカリンガの戦士達とは、さぞかし凄まじい侍スピリットの持ち主であったに違いない。ならば現代に至るまで、豊かな武術の伝統を残していても不思議はないと。

一方、目に見える造形としての法輪のデザインは、アショカ王の石柱によって始めてブレイクし、インド全土に普及していった事実がある。ならば、この二つが重なるオリッサの地には、棒術の回転技を転法輪の技として伝承する人々が、ひょっとしたら今でもいるかも知れない。私の読みは、正にこの一点にあった。そしてその狙いは、半ば的中する事となったのだ。

久しぶりに訪ねたダウリの日本山では、依田お上人が変わらぬ笑顔で迎えてくれた。ひと昔もの時が流れたにも関わらず彼は私の事をよく覚えていて、しばらくは懐旧談で盛り上がった。そして話の流れで私がインド武術を研究していると言うと、彼は一人の人物を紹介してくれたのだった。

依田お上人とハリさん

ハリ・プラサードさん。糸東流空手の5段で、ブバネシュワルで空手道場を開いている。武術に関する造詣も深く人脈も広いので、何か情報があるかも知れないという。私は早速彼に会って、情報収集に努めた。

その結果、オリッサでは伝統武術が盛んに行われていること、プリーにはロープを使った回転技があること、そして、村々に伝わる総合武術の中にも棒術の回転技があるらしい事がわかった。やはり回転技はオリッサにも伝わっていたのだ。「転法輪仮説」に絡む証言を、今度こそ得られるかも知れない。私は神の采配を祈りながら、ダウリを後にした。

プリーはジャガンナート寺院の門前町として発達した巡礼地だ。ベンガル湾に広がる美しいビーチはリゾートとしても人気が高い。そこで私は、偶然もう一人の協力者と出会う事になった。今回日本から樫の長棒を持って旅をしていたのだが、プリー駅ですれ違った際にその棒に目を留めて、彼のほうから話しかけてきたのがきっかけだった。

ロシアから来たカマルさん。ヒンドゥ教のアシュラム修道場サニヤシン修行者として10年近く生活した後、現在はプリーに家族と住んでサンスクリット語を学んでいるという。来歴を聞くと何やら仙人のようなキャラを思い浮かべるが、実は大の武術マニアで、身長185cm体重は85kgにならんとする威丈夫。インド棒術も多少たしなみ、しかも大の日本びいきというおまけまでついていた。

私はその好意に甘えて彼の家に居候しながら、精力的に武術探訪を進めていった。彼の友人のアナンダさんから新しい回転技のバリエーションを教わったり、私が合気道の棒術を見せたりと、滞在はとても楽しいものとなった。取材の多くで彼らが通訳を務めてくれなければ、オリヤ語が話せない私は途方に暮れていたに違いなかった。

カマルさん一家とアナンダさん

結論から言って、プリーには3種類の伝統武術が存在していた。

ひとつはバナーティ。これは前述したとおりロープを使った回転技で、1.8mほどのロープの両端に1kgほどの重りをつけ、それに火をつけて回していく。

バナーティ協会の皆さん。中央が会長のラマチャンドラ師
ロープの端に重りをつけそれに火を点けて回すバナーティ

アナンダさんの案内で取材したバナーティ協会のラマチャンドラ師によれば、古代カリンガ国の戦場では鎖を使った投擲武器としてこの技が活躍し、ダヌル・ヴェーダのスーチ・ヴューハ針の陣形では、炎の回転技が最前線で全軍を鼓舞する役目を果たしたのだと言う。

もうひとつはパイカ・アーカーラ。これはカマルさんの案内で見る事ができた。パイカとは本来志願兵を意味する言葉らしく、古代の王国において正規軍とは別に農民達によって武術が稽古され、いざ合戦となったら志願兵として戦場に馳せ参じたのがその起源らしい。

一説によれば、オリッサにおいてイギリス植民地支配に最後の最後まで抵抗したのが、クルダー砦に立てこもったこのパイカの戦士達だったと言う。

様々な武器アイテムを持つパイカの人々

かつては勇猛で鳴らしたこのパイカの軍勢、その祖とも言えるオリヤの戦士たちが、恐れを知らずにアショカ軍に徹底抗戦し、カリンガ戦の惨禍の一方の立役者となったのかも知れない。

しかし、昔はカラリパヤットと同じような総合武術だったというパイカも時の流れと共に変質し、現在は村のマーシャル・ダンスといった趣になっていたのは少々残念だった。

一方、パイカでも棒術の回転技は健在で、私を大いに勇気付けてくれたが、その後の取材で、オリッサでは特に「武術」として大上段に構えなくても、日常の生活文化、地域スポーツやレクレーションとして、棒術とその回転技が広く楽しまれている事実が判明した。これは一般に『ラティ・ケラ』と呼ばれるが、農村部ではほとんど村ごとに師範がいて棒術を教えているような状況で、タミル以上に棒術の里と言えるかも知れない。

けれど、どこで聞いても転法輪との関わりは証言が得られず、その点に関しては振り出しに戻った感があった。

そして最後の武術がクシュティだった。これもカマルさんからの情報提供でたどり着いたもので、道具立てはラジャスタンのものとほとんど変わらなかった。

ただ、その起源については、12世紀前後から強まったムスリムの侵略からジャガンナート寺院を守るために、バラモン達によってクシュティが修行されてきたという。そう言えば、ナットドワラの御神体もムスリムの攻撃から疎開してきたと言うし、ラケッシュさんも職業は牛乳屋だがバラモン・カーストであった。

その後の調べでは、ヴィシュヌ・パット寺院があるガヤー、ヴィシュワナート寺院があるバラナシ、クリシュナ寺院のあるマトゥラーなど北インドを代表するヒンドゥの聖地にも古くからクシュティの道場が集まり、それらは全て、ムスリムの攻撃から寺院を守るために始まったという点で一致していた。

私はこれらのすべてを写真とビデオに収め、武術取材に関してオリッサ訪問は予想以上の成果を挙げる事ができた。そして、回転技の転法輪仮説については、その後、思いもよらない急展開が待ち受けていたのだった。

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左から筆者、依田お上人、カマルさん、アナンダさん。2006年末 ダウリ日本山妙法寺にて

■オリッサで大変お世話になった依田和夫お上人様は、2019年12月にお亡くなりになりました。ご生前のご厚誼に感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします。


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