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工業高校から看護学部にはいるまでのこと。

看護学部に入るまで。

工業高校の普通科で部活や定期的なバイトもせず。だら~んとしていた高校2年のとき、祖母の介護を母親が自宅で始めた。
もともと寡黙な祖母が脳梗塞により言語・右半身麻痺と身体障がいとなり、それまで別々の暮らしをしていたが、発病~入院~退院から急遽、同居・在宅介護に突入。

ばーちゃんと一緒に暮らすんだな~程度の感覚で、いざ同居。
母親が日々介護対応と、自宅に見慣れない人が出入り(ケアマネジャーさん)するようになり、将来何になりたいかも”だら~ん代表”的な自堕落な生活の中で、漠然と、”なにか今後について考えなきゃいけないな~”が、将来を具体的に考える最初だった。ような気がする。

家業のこと。

ちなみに、家業は土建屋。中卒の親父が始めた有限会社。
幼いときから、アイロンパーマ・パンチパーマ・ドカジャンの人たちが、自宅兼事務所にくるのが日常。
他の家の、お父さんたちはスーツでサラサラヘア。
周囲の環境とは異なり、ガテン系のいかついオヤジたちに囲まれて育ってきた。

しかも3人兄弟の長男。なんとなく、土建屋の跡取りになるんだな~という漠然とした日々。幼稚園の時の将来の夢は、消防”車”になることから、その後10年は、な~んもやりたいことも、なりたいものもないのが常。。なんとなくの日常をなんとなく過ごしていた。

土建屋作業は、中・高校生のとき、腰に釘バックを巻いて、土日は作業現場で雑用。朝、おやじと同じ弁当をもって、夜まで現場。帰って小遣いをもらい、こうやって現場仕事していくんだな~の日常だった。
いまだにGoogleMAPで当時の親父が建てた家々をみると地図に残る仕事の偉大さを再認識。家業のことはその後、親父の事故死で事業承継。それはまた別に書くとして。

看護学部を選ぶまでと、入ってからのこと。

時は、就職氷河期の真っただ中。

職業を公務員!、手に職を!という流れもあり、今のYouTubeや投資家なんて時代でもなく、ましてや地方都市では、公務員・会社員・力仕事の3分類ぐらいしかない中で、”だら~ん代表”としてどうしたものか。と考え始めたときに、冒頭のばーちゃんの件に合わせて、従兄が2つ上で看護学校に入学。従兄が一人暮らし+YAMAHAのヴィラーゴに乗り始め。
あ。ええやん。それ!と。よく看護ってわからんけど、世の中のじーさん・ばーさんの面倒をみるか。と、看護学部を受験。当時の学力的には記念受験的になるだろうな。。が、まさかの合格。
親父、わりぃ看護師なるわ。的な感じで”だら~ん代表”が、さらりと看護学生へ。

看護学部へはいってからのこと。

当時、大学入学後、看護学部は男性は学年全体の数%!
まだまだ専門学校では女性のみ。といった看護学校も多くあり。
他の大学をみても看護学部の中での男性は希少な存在。

高校は男子校。入学から卒業まで1割以上が退学になっていた学校から、
女子率ほぼ100%の環境へ。
1990年代末期の入学当時、当時ジャージを腰履きにしてナイキのハイテクスニーカーを履くのが、おしぇれでした。
当時そんなおしゃれブームに漏れずプーマのジャージ(プージャー)を腰履きにして、大学生活をスタート。
看護学部にそんな人だれもおらず。。さらに希少種。

その後、先生の一人から、男性看護学生のイメージについて
「看護師には、やさしい真面目な男性がやっぱりなるんだな」と思ったのは2つ上の先輩方。
「体育会系の男性も看護師を目指すんだな」と思ったのは1つ上の先輩方。
私たちはというか、私は、「今どきの子も看護師目指すんだな」との感想が今でも思いだされる。

という昔話から、これからやろうとしていることを今後書いていきます。


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