2007年に「個人でコミュニティを持たねばならない」と思い、ご近所会を始めた理由
私は2007年2月10日、八丁堀の寿司屋で偶然隣り合った人と「ご近所会」を始めて13年運営しています。
「コミュニティ」が、社会やビジネス、様々な文脈で注目されておりますが、世界を独り放浪していた人間が、なぜそう思い至ったか、原体験や考えたことを書いてみます。
「つながり」を失うと人は死ぬ:原体験1
大学4年から8年ほど、新宿7丁目の風呂なし・トイレ共同・四畳半、家賃3.2万円(光熱水道代込)の下宿に住んでいました。
外からは一軒家にしか見えない、大家さん宅2階です。
高田馬場出身のおばちゃんは、竹を割ったような典型的な江戸っ子。70後半一人暮らし、高級官僚だった亡夫の天下り先含む複数の年金収入があるものの(満鉄まで!)、子供もないし賑やかな方が良いと、学生を4人住まわせていました。
その生活は判で押したようなもので、毎朝5時から家中の掃除を始め、朝食が済む頃になると、嫁入りからの付き合いのご近所友達が集まって茶飲み話。昼を済ますと、銭湯の一番風呂でいつもの面々と話し込み、夕方はまた同じ人達で茶飲み話、夜7時には床につき、早朝からまた掃除を始める。
そんな繰り返しを何十年と続けてきたのです。
ある日、私もお茶を相伴してたら、バブル期の話になりました。
「土地を売って引っ越した人も、結構いたわね」
「でも、みんな死んじゃったわね」
何気なく話していましたが、地元に残った80前後の人々は元気に毎日出歩いている一方、つながりから切り離された人々は悉く死に絶えていると、強く印象に残りました。
90代の「看板娘」:原体験2
大学のサークルに代々続いていたバイトに、年末に野方の米屋で餅をつく、5日間住みの仕事がありました。
店には90代の大女将がいました。
きんさんぎんさんのように朗らかで、耳こそ遠いものの、大きな声でとにかくよく喋ります。
米屋の店頭に毎日腰掛けて、常連さんをつかまえては長話を楽しんでいました。
残念ながら100歳直前で亡くなってしまうのですが、前日まで元気にしていたそうです。
定年などなく人と接し続ける客商売は、生涯現役の人が多く、定年後に一気に老けるサラリーマンとは随分違うと思っていました。
「つながりは生命力の源」と確信する出来事や読み物は他にもあり、そんなことで、生物としての活力を保つために、自ら場をつくろうと決めたのでした。
ちなみに、「つながり」が少ない人は死亡率が2倍になる、というのは、最新の予防医学でも実証されているようです。
街の力を感じながらも:原体験3
新宿7丁目には8年住んでいました。
きっかけは、屋久島野宿旅の最終日だけ泊まった民宿で、新大久保の特集番組を見て、街のディープさに惹かれたため。
大江戸線の無い頃で、最寄りの新大久保駅は徒歩20分弱かかる陸の孤島の住宅街。
ホストクラブの巨大な看板広告がかかる明治通りの交差点を越えれば、左手は歌舞伎町、右手に新大久保。
夜は南米の売春婦が数メートルごとに立ち並び、韓流ブーム前で、ポップさの欠片もない、ソウルの安宿街にあるような食堂や焼肉店ばかり。
すれ違う人の殆どは外国語を話しています。
そんな猥雑だがエネルギーを感じる街ならば、様々に面白い人がいるだろうにと思いながらも、キッカケがなく、地元仲間のようなものはいませんでした。
やがて「もう大人だから」という理由で、銀座に住もうと思い立ち、1週間で移住を決めました。
さすがに銀座は住めず、同じ中央区で八丁堀駅徒歩5分の新川に落ち着きましたが。
そんな訳で、次の街ではご近所仲間を作ろうと考えていました。
与えられたコミュニティと、自ら作るコミュニティ
つながりが必要とはいえ、価値観の合わない連中と折り合いをつけることを強いられるのは、むしろ生命力を削がれます。
地域、学校、会社などはそういう限られた帰属者からなる旧来型コミュニティであり、自分で軸を定義し、自由に選び選ばれて場をつくるのとは、質的に異なります。
実際、地元を出たら・学校を卒業したら・会社を退職したら、そこにいた人々とは疎遠になるのが大半でしょう。
中には、関係が続く相手もいるかもしれませんが、元々の相性が良かったか、他に新しいつながりが作れず、消去法で続けているくらいのものでしょう。
一方、主催者がそこをどんな場にするか、どんな人が相応しいかの軸を決め、参加者・主催者の双方が、制約ない選択肢の中から、自由意志に基づき、互いに選んだ場なら、つながりの持続力も強くなります。
ITツールの発達で、場をつくりやすい時代においては、自分で場を作った方が良いと思うのは、そんな理由です。
なお、ご近所会は、地元出身者の会とは異なります。
それは、自分の意思とは無関係に住んでいた地域で人格形成期を過ごしたという、感傷的な共通点で人を束ねた会であり、自らの意思や価値観を軸とする場とは、質的に違います。
「お神輿担ぐやつですか?」とも聞かれますが、それは「町会」です。
町会もまた与えられたコミュニティで、自ずとメンタリティに違いがあるからか、コテコテの地元民はいませんでした。
始めて程なく、面白くて人間性が合えば、別に中央区に住んでなくても勤めてなくても良いではないかと思い至り、参加資格を「在住・在勤・在心」としましたが、思想の背景はそんなところです。
「意あらば」の関係性
私が基本とするのは、李白の漢詩にある「意あらば」の精神です。
放浪の詩仙が、山中で同じような俗世を捨てた隠者と出会って飲んだという詩ですが、互いに気が向いたらまた会おう、という水の如き交わりが描かれています。
「山中にて幽人と対酌す」 李白
兩人對酌山花開
一杯一杯復一杯
我醉欲眠卿且去
明朝有意抱琴來
両人対酌すれば山花開く
一杯一杯また一杯
我酔うて眠らんと欲す卿且く去れ
明朝意あらば琴を抱いて来たれ
訳:
2人で呑み始めると、山の花が咲くかのように盛り上がる。
一杯一杯また一杯と酒が進む。
俺は酔って眠くなった。とりあえず帰ってくれ。
明日また飲みたいと思ったら、琴を持っておいでよ。
互いが「また会おう」と思える人だけを繋げていくことがコミュニティの基本だと考えています。
軸と幅を持つ切り口:なぜ「街」なのか1
同じ街を選ぶ人には、同じニオイを感じます。
住む場所の選択は、ライフスタイルに影響し、多額の出費を伴う重要な決定なので、個人の価値観が強く反映するからではないでしょうか。
中央区も港区も、家賃は変わりませんが、街のイメージは違います。
汐留に勤める同じ会社の人でも、六本木に住むのか、勝どきを選ぶのかで、やはりキャラクターは異なります。
コミュニティには何かしら共通の価値観が必要ですが、同じ街を選ぶ人には、相通ずる可能性が高いのでコミュニティ化しやすい素地があります。
一方で、街に住む人には多様性があります。
会に来ていた人々は、坊さんもいれば区議もいるし、外国人や70代もいれば子供もいました。
多様性はコミュニティの活性化と継続に欠かせません。
代わり映えのしない面子で同じことを続けている場に新しく入ろうと思う人はおらず、緩やかに衰退するからです。
会社、大学、業界、趣味、テーマ、年代など、様々な切り口の集まりはありますが、街ほど多様性を出せる切り口は他にないと思います。
母数も大きいです。
中央区は小さな区ですが、それでも私が住み始めた時の人口は8万人、10年ほどで16万人になりました。
私がいた頃のソニーの従業員数が、日本各地・全世界で、グループ会社含めて16万人でした。
しかも、物理的にも同じ場所にいて、分かりやすいので、リーチもしやすいのです。
実際、会の名刺を渡すと「昔八丁堀で働いていました」「友達が中央区に住んでます」と、何かしらのつながりが、結構な割合で出てきます。
人が人を誘いやすい:なぜ「街」なのか2
コミュニティが健全に発展するには、参加者が新しい人を誘うサイクルが継続しなければなりません。
まずは簡潔明瞭なことです。
「中央区のご近所会」は、一度聞けば理解し覚えられます。
「東京都中央区在住、または在勤」という定義も、客観的で人による解釈の幅が出ません。
言って恥ずかしくないことも重要です。
以前「活躍している同年代の会」を立ち上げた人を見たことがありますが、自分で自分を活躍していると言える人は、世の中そう多くないと思います。
フィルター効果があると尚良いです。
新しい会への参加を検討する時、人はそこが安心できるところか「値踏み」します。
有名な大学や企業のOB会がやりやすいのはそのためです(実際は変な人もいますが…)。
特に、地名は端的な上、直接的ではない言いやすさがあります。
「港区女子」はいい例で、直接的な表現で説明するとアレですが、地名で中和されますし、一言に色々なイメージを盛り込めます。
中央区は、銀座、八重洲、日本橋、京橋、築地、月島、八丁堀、佃、勝どき、晴海など、派手さはなく手堅い感じがあるのではないでしょうか。
「歌舞伎町会」だったらまた違う会になったでしょう。
最近は「100人カイギ」という"終わりのある"地域コミュニティ・イベントのフォーマットがあり、結構な浸透力で各地に広がっています。
これも「街」の持つ、コミュニティとの親和性を示すものでしょう。
因みに、このフォーマットは、他にもコミュニティ屋から見て良くできた仕掛け(有期性、簡潔明瞭なコンセプト、標準化、変化の仕組化)があり、それは別途論じたいと思います。
余談「霞ヶ関会?」
引越して家具を探していた時に、家具屋がいくつか入った青山の複合施設ビルで、店かと思って特設会場のようなところに紛れ込んだことがあります。
受付で「ここは家具売場ですか?」と聞くと「いいえ、”霞ヶ関会"です」と言われました。
気になって調べたら「医者やエリートの専門パーティー」だそうで…なかなか趣のあるネーミングです。
実はこれが「八丁堀会」の名前の元ネタです。
八丁堀の持つ、江戸な響き(最近は時代劇がそもそも少ないので、若い人はそういう想起がないようです…)と、高校から東京にいる私ですらその界隈に行った記憶がないマイナー感が気に入って、何の気なしに最初から会の名前をつけていました。
住む距離の近さが、関係の近さに:なぜ「街」なのか3
飲み会後、23時近くに地元でもう一杯だけ飲みたい時、声を掛けられるのはご近所民だけでしょう。
電車で帰らなければならない人は誘われません。
2時間飲んでも1時半には寝られ、都心は通勤時間も短く7時間は寝られるので、さほど気兼ねもいりません。
まあ、皆若かったというのもありますが。
行きつけの溜まり場があると、さらに会いやすくなります。
誰かいるかなと思って皆顔を出すから誰かに会う、だからまた顔を出してみるという「部室効果」があるからです。
顔を突き合わす回数が増えれば関係も深まります。
会えば何か新しいネタが出ます。
そうして新しいコトをカタチになります。
一緒に何かやれば、更に関係が深まります。
常に新しいことが行われていれば、ちょっと行ってみようと思えます。
関係が良ければ場の雰囲気が良くなり、人が人を呼ぶようになります。
実際、人の縁とは不思議なもので、ほんの1つの意図しないつながりが、将来に大きく広がることがあります。
「今のところに住み続けることは、その機会を失うことである」と嘯いて、1年間で10人ほど中央区に引っ越させたこともありましたが、実体験として、そういうものです。
スタートアップの中には、会社の近くに住むと手当をくれるところもありますが、その意図は、会社をコミュニティ化し、カルチャーを強いものにするためだと思っています。
また、本質的にゲゼルシャフト(機能体組織、利益社会)である会社を、ゲマインシャフト(共同体組織)化すれば、従業員にお金以外の報酬を提供でき、経営効率が上げることもできる、とも言えます。
一つの縁で場が始まる
ご近所会を作ろうと思いつつも、きっかけがないまま中央区に移って一年が経ちました。
ところが、行きつけの寿司屋でたまたま隣り合った客に話しかけたところ、彼もすぐ近くに住んでおり、ご近所会をやろうという話で盛り上がりました。
4ヶ月かけて2人で人を集め、第一回は、月島スペインクラブにて6人で飲み会をしました。
頭数を増やす気はなかったので、勧誘と紹介のみでやっていたのですが、人が人を呼び、4年も経つと、築地本願寺で260人超の宴会をやる1,300人規模の会になってしまいました。
別の機会に、なぜそうしたか、どうして急拡大したのか、なぜそこまで大きくなったものを休眠させたのか、お伝えしようと思います。
また、13年もやっていると数多くのコミュニティの消滅も見るので、「コミュニティの死因」についても稿を改めましょう。
ご参考:会の概要
集まりの案内はメールのみで行なっていましたが、その最後には必ず会について書いた下記の一文を入れていました。
経緯、趣旨、方針、概況、関係性について、簡潔に書いてます。ご参考に。
2007年2月10日に八丁堀の寿司屋で偶然隣合った2人が「ご近所仲間をつなげよう」と意気投合して始めた会。
興味深い人々と、肩の力を抜いて交流できる場を作ろうと、徒に規模の大を追わず、"勧誘と紹介"のみでご縁を広げてきましたが、自ずと人が人を呼び、築地本願寺で開催した創立4周年宴会では、中央区長はじめ約260人以上が集まるに至りました。
特長は参加者の多様性。
職業は会社員、経営者、専門職のみならず、政治家、デイトレーダー、僧侶・神主、アーティスト等様々。
30歳前後を中心に4歳から70代まで、世界各国の、極めて幅広いバックグラウンドの方々が集まります。
"地縁"を原点とはしながらも"ご縁"があればどなたでも参加できますので、気軽にお越しください。
ご縁の果てに、今はこんなことをしています。
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