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ルピナス

君たちは、心の底から安心を感じたことがあるだろうか?
僕はなかった。そう、あの時までは…………。

あの頃を思い出そうとして真っ先に浮かんできたのは、とある商店の壁に立てかけられたプラカードだ。そこには赤い文字で「ドイツ人はドイツの商品を購入せよ!」と書かれていた。
商店の入り口には突撃隊員がふたり、見張りに立っていた。
無視して店の中に入ろうとする者は、時々写真を撮られていた。
ショッキングな赤い文字を見た時になぜかはわからないが、荒れた海と濃い霧と、灯台から聞こえる霧笛が心に浮かんできた。
それが「新しい体制」が始まるのだという、重い実感だった。

別れを切り出したのはファニーの方だった。
なるべく目をつけられないように、事を荒立てないように、衝撃を吸収するように。離婚しても、心は繋がっているのだからと言って。
僕の妻のファニーはユダヤ人だったのだ。

ファニーと別れた後、ユダヤ人と交際していた少女が首に札をかけられ、町中を引きずり回されて嘲笑されたというような話も耳に入るようになった。
体制に協力しない者は掲示板に名前を貼りだされた。
1935年にはニュルンベルク法によって、ユダヤ人は秩序立ったやり方で排除されていった。
ユダヤ人は村にいられなくなり、大都市に引っ越したり国外に移住したりするようになった。ファニーたちも他の都市に引っ越した。
ユダヤ人はドイツ人の商店には入れなくなった。なので、僕はあちこちの商店を自転車で回り、出来る限りファニーたちが必要なものを購入し、こっそり渡していた。
特に怪しまれることもなく、驚くくらい上手くいった。

1938年以降になると状況は坂道を転がるように悪化した。
戦争も始まった。
ユダヤ人たちは強制収容所に送られ、そこから軍需工場に派遣され過酷な労働を強いられるようになり、命を落とす者も格段に増えた。
いざという時にファニーを匿えるように、僕は納戸を彼女のための隠れ部屋にした。

そしてとうとうその隠れ部屋が必要になる時が来た。
1943年になっていた。
しかし僕が匿うことになったのはファニーではなく、妹のバルバラだった。ファニーは逃げ切ることが出来なかった。
そしてもうこの世にはいない。

いざとなったらファニーを匿おうと決めた時、僕は入党し、突撃隊にも入隊した。
体制に反対していると思われると、目を付けられて物事がスムーズに行かなくなるかもしれない。厄介な介入を阻止するための、体制への同調だ。

バルバラが逃げてきて、集合住宅の僕の部屋の窓ガラスに小石を投げた時(そういう合図をあらかじめ決めておいたのだ)、僕は褐色の制服を着ていた。
玄関でバルバラを出迎えた時、彼女はぎょっとしたが、着替えている間に誰かに見つかるとまずいので仕方がなかった。
ファニーは来られなかった、と聞いてもなかなか実感が湧かなかった。
戦時中ということもあり他のことに気を取られ、しばらく会っていなかったファニーの存在が既に過去のものになっていたのも原因かもしれない。
むしろ、食料を分けるのがバルバラだけでよくなったので、少しほっとしたのが本音だ。だんだん配給量が減ってきたからだ。

僕が町に働きに出ている間(僕は肩の調子が悪く、徴兵は免れていた)、バルバラは音を出さず、窓辺に立たず、ひっそりと過ごしていなければならない。
バルバラは、自分のノートに絵を描いて過ごしていた。ファニーとふたりで動物園に行った時の絵。年の割には幼いタッチだ。
バルバラはもうすぐ20歳になるというのに、こげ茶色のおさげ髪の彼女は14歳ぐらいにしか見えなかった。
まるで、幸せだったころで成長を止めてしまったかのように……。

ファニーと出会ったころ、僕は幸せだったんだろうか?
第一次大戦後、国はとても貧しかった。失業者で溢れ、みんなみじめで、プライドを失っていた。モラルが崩壊し、若者の売春や小犯罪が横行していた。猟奇的な事件もたまに起きた。全て貧窮が原因だと言っても過言ではない。

僕たちも貧しかった。贅沢は一切出来なかった。
休日になるとふたりで森に行った。小さな白い花、エメラルド色の木の葉、石や苔がはっきりと見える、驚くほど透明の小川……。
ファニーは、この花や小川があれば他に何もいらないと言っていた。
生活が良くなるという未来への希望は無かった。
そうやって、目の前にある花で幸せを感じるように、自分たちを納得させ、騙していた。
美しい花を見ていても、僕の心の底には常に暗い穴があった。

新しい体制になり、僕はファニーと別れた。
八方塞がりだった国民の未来は、少しだけ見通しがつくようになった。
景気の回復は軍備拡張のおかげではあったが、娯楽を楽しむ余裕が出来たことに抗える者はいなかった。
僕も気軽に本を購入したり映画を観に行けるようになり、知識欲を満たせるようになった。歴史的建造物や遺跡を観に、他の都市に旅行に行く計画を立てた。

しかし戦争が始まり、旅行には行けず、バルバラを匿うことになった。
もしファニーと出会った頃に戻れるとしたら、僕は戻るだろうか?
あの時のままの人生がずっと続くとしたら?
僕は、今の状態を選ぶだろう。あの時ほど何もかもが停滞していた辛い時期はない。

かと言って、戦争が長引いて欲しいわけではない。
僕は、どこの国のどんな人々も何の犠牲にもならず、精神的に豊かな生活を送れるようになって欲しいだけなのだ。

ドイツ政府の報道は信用出来ないので、時々夜中にこっそりイギリスのラジオ放送を聞いた。もちろん「ラジオの非常措置に関する命令」により、敵国の放送を聞くことは禁止されている。それが発覚すると逮捕される。強制収容所に送られるか、最悪の場合は死刑もありうる。
放送を聞いたらダイヤルをきっちり元に戻しておかなければならない。
しかし、ラジオを聞いてもなかなか戦争は終わりそうにないということだけしかわからなかった。

バルバラと戦況について話すこともあったが、明るい話題は無かった。
一度、外に出られない彼女のためにルピナスの花を摘んできたことがある。
淡いピンク色のルピナスを数本、コップに活けて食卓に飾った。
バルバラは、悲しげな表情で花をじっと見つめていた。

空襲警報は頻繁に鳴ったが、この町は要衝の地ではないため、これまで実際に爆弾が落とされたことはなかった。

ある夜、突撃隊の集会があった。集会と言っても酒場で酒を飲んで馬鹿馬鹿しい歌を歌うだけだが。
その集会で、他の都市の空襲の被害がかなり深刻であることを教えてもらった。
空襲は軍需工場などを重点的に狙っているのだと思っていたし、それで戦争が早く終わるなら労働者の犠牲は仕方がないと思っていた。
しかし、連合軍の空爆は、戦争に全く関係のない歴史的な遺産も破壊していると知った。民間人も大量に死んでいると。
僕は眩暈がした。戦争が終わったら訪れたい歴史的な場所がたくさんあるのに。ソ連ならばまだしも、まさかアメリカやイギリスが、ヨーロッパ全体の遺産をこんなにあっさりと破壊するとは思わなかった。
悲しかった。
「ヨーロッパ文化を守るための戦争」という党のスローガンは、もしかしたら間違っていなかったのかもしれない。

家に帰ると、バルバラが食事を用意していた。
いつも暗い表情の彼女が、心なしかほんのりと笑みを浮かべているように見える。
ふと気づくと、ラジオのダイヤルが少し動かされている。
僕がいないうちにこっそりラジオを聞いたのか?しかも敵国の?隣の住人に音を聞かれたらどうなると思っているんだ?
彼女はドイツの都市が破壊されるのがうれしいのか?民間人が大量に死ぬことが嬉しいのか?

「バルバラ」

僕は低い声で言った。

彼女の顔から笑みが消え、怯えた目で僕を見上げる。

「お前は俺のラジオを勝手に触ったのか?」

バルバラは首を振り、小さな声で触っていないと言った。

その夜、とうとう爆撃機編隊がこの町にも爆弾の雨を降らせた。
アパートの廊下から、地下に避難するよう呼び掛ける声が聞こえる。
一気に慌ただしくなった。
僕は無視した。部屋を暗くし、窓を開け、照明弾が降ってくる様子や、高射砲による迎撃をじっと見ていた。
曳光弾の光が飛行機の輪郭を照らし出す。
僕は死んでも構わなかった。
バルバラがこの時に何をしていたのかはわからない。
笑っていたのかもしれない。

それから数か月が過ぎた。
空襲は何度かあった。いくつかの建物が炎上した。
僕たちのアパートは大丈夫だった。

1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸した。
ドイツのラジオ放送もさすがにそれを無視することは出来なかった。
バルバラも息を詰めて放送を聞いていた。
僕は薄暗い部屋の中を歩きまわった。
腰のホルスターの銃を触って言った。

「いつまでこんなことをしているんだろう?俺と君の頭に一発撃ち込めば全て終わるというのに」

バルバラは、悲しそうな顔をしていた。
みじめで可哀そうな子供を見るような目つきで僕を見た。
まるで母親のような目つきで。
僕のことを弱い情けない奴だと思っているのか?
僕がいなければ彼女は飢え死ぬだけだというのに。
馬鹿にするな!

ふと気づくと僕は、数日分のパンを食べてしまっていた。

ある日集会所から家に帰ると、バルバラの髪型が変わっていた。
自分で切ったらしい。
長いおさげ髪を、ファニーのようなボブカットにしていた。おさげのなごりでウェーブがかかっている。
僕は石のような表情で彼女を見つめ、何も言わずに自分の部屋に入った。

集会所に入り浸ることが多くなり、家に帰る時間は遅くなり、真夜中を過ぎるようになった。
ある夜、僕は飲みすぎてしまった。月が明るかった。
ふらふらと家に帰る途中で、途轍もなく気分が悪くなった。
道の端の茂みによろよろと進み、吐いた。
その時咄嗟に思ったのは、「絶対にこの制服を汚してはいけない」だった。

そしてその瞬間、僕は心の底から安心を感じたのだ。

僕の属する世界はここにある、と。

「負けてはいけない」と思った。

その瞬間から、バルバラは「敵」になった。

そもそも彼女はなぜ突然髪型を変えたのだ?
突然女性らしくなったのは何故だ?
僕がいない間に彼女は家で何をしている?
なぜ僕は、彼女が従順に部屋で大人しくしてると思ったのだろう?
こっそり出歩いているかもしれない。
どこかで反体制派の男と会っているかもしれない。
もしかしたら家に連れ込んでいるかもしれない。
他の都市が破壊され、罪の無い民間人が死に、兵士が戦場で死闘を繰り広げているこの瞬間にも、彼女は反体制派の男と共に、国を内部から腐らせようとしているのかもしれない。
第一次大戦の時のように。

僕は家に帰った。
酒に酔った僕を初めて見たバルバラは戸惑った。

「俺がいない間にいつも誰を連れ込んでいるんだ?」

困惑している彼女に近寄り、両腕を乱暴に掴む。
すぐに折れてしまいそうなほど細い。
力を入れ、引き寄せた。
バルバラは喘ぎ、激しく抗った。
僕は彼女を突き放して言った。

「嫌なのか?誰がお前の面倒を見ていると思ってるんだ?」

そして部屋に閉じこもった。
食卓にはもう花は飾られていない。

それから数週間が過ぎた。

その夜、僕は酔っていなかった。
なのに愚かな行動をとってしまった。

少ない量の食事の後、バルバラは片付けを始めた。
僕は台所で皿を洗う彼女の後姿をじっと見つめた。
そして……
そっと近づいていき、突然後ろから抱きしめた。
片手で首を羽交い絞めにし、もう片方の手で胸を鷲掴みにした。
彼女は小さく悲鳴を上げ、僕の腕から抜け出そうともがいた。
僕は彼女のブラウスを掴み、思い切り引き裂いた。
彼女は破れたブラウスを胸の前で掻き合わせ、壁を背に、ずるずると床に座り込んだ。
僕は彼女の前に立ち、暗い目で見下ろした。

その時、気づいた。
バルバラのよれよれの古いクリーム色のブラウスを、以前ファニーが着ていたことを。
このブラウスはファニーのお下がりだったのだ。

その瞬間、森が見えた。休日に森に行くとき、ファニーがこのブラウスを着ていたのを思い出したのだ。
白い小さな花。エメラルド色の葉。透き通った小川。
全てが蘇ってきた。

僕の足元で震えているこの女性は、ファニーだ。
ファニーが戻ってきたのだ。
僕はとんでもないことをしてしまった。
愛する女性を乱暴に扱ってしまったのだ。

ぼくは膝をつき、ファニーに覆いかぶさった。
そして強く強く抱きしめた。

ファニーの首筋に顔をうずめた……が、すぐに突き放した。

「……違う」

ファニーではないことは、心の奥ではわかっていた。
彼女はとっくに死んだ。
それはわかっている。
人間はそんなに簡単に狂えない。
狂ってしまえれば楽なのだろうけど。

ここにいるのは、ファニーでも「敵」でもなく、僕が守らなければならない小さなバルバラだ。

僕はよろよろと食卓まで歩き、椅子に座ってうつむき、両手で顔を覆った。
バルバラは素早く立ち上がると、隠れ部屋に入って扉を閉めた。

何も聞こえてこなかった。

翌朝、バルバラは起きて来なかった。
僕も彼女に声をかけることなく、いつも通り仕事へ行き、いつも通り帰ってきた。

バルバラはいなかった。
バルバラなんて最初からいなかったかのように、部屋はシンとしていた。

全身が凍り付いた。
とうとう見つかったと思った。
僕は強制収容所へ送られる。
しかし、アパートの周囲がざわついている様子は無かった。
警察も、不審な車も何も無かった。

僕は食卓の椅子に座り、じっとしていた。
頭がからっぽで、全身が冷たく、硬くなっていた。
その夜はパンのかけらをぼそぼそと食べ、ずっと椅子に座り、バルバラが帰って来るのを待っていた。眠ることは出来なかった。

翌朝、いつも通り仕事に出た。
町を歩くとき、バルバラがいないか探してみた。
似たような髪型や体形の女性が案外たくさんいて驚く。
でもみんな別人だった。似てるけど、違う。
バルバラは世界にひとりしかいないのだ。

家に帰る。
やはり誰もいない。
その繰り返しが一週間以上続いた。
張り詰めた緊張感はだんだん薄れてきた。

すると淋しさが襲ってきた。
僕を待っている者はもう誰もいないのだ。
部屋は薄暗く、何の音もしなかった。

以前ラジオで聴いた、グリーグのペール・ギュント「ソルウェイグの歌」を思い出した。
名誉のために「世界の王」になることを決意したペールは、妻ソルウェイグに「きっと帰ってくる」と約束し、広い世界に旅立つ。
しかしペールは帰る気などなかった。妻を騙したのだ。
ペールは殺人を犯し、友人を裏切り、破滅の道を進む。
ぼろぼろの精神と肉体になったペールは、最後には結局ソルウェイグの元に帰って来る。
ソルウェイグはペールを信じ、ずっと彼を待ち続けていた。
ペールは言う。「僕の罪を責めてくれ!」と。
ソルウェイグは、「あなたは約束通り帰ってきてくれた」と言い、ペールを抱きしめる……。
確かこんな内容だったはずだ。
恋人であり、妻であり、母親のようでもあるソルウェイグ。
帰って来たペールを抱きしめてくれるソルウェイグ……。
僕を待っていてくれるソルウェイグはふたりともいなくなった。
自分から突き放したんだから当然だ。
ここで僕は、どんなに自分がバルバラに甘え、依存していたかを思い知った。
家から出られない彼女は、僕を待つしかなかった。
それを利用し、僕は彼女に辛く当たり、攻撃し、甘えていたのだ……。
そして彼女は消えた。
僕の罪は永遠に許されない。

それから数か月が過ぎ、冬が来た。
ファニーがいなくなり、バルバラもいなくなり、僕に残されているのは制服だけだ。
それももう少ししたら奪われるだろう。
僕たちは敗ける。
その後は新しい何かがやってくる。
奪った分だけ奪われる。
厳しいものになるだろう。
文化は破壊され、炎が町を覆い、飢えはひどくなり、死体が散乱する。

そんな世界で生きる意味はあるのだろうか?
全てが瓦礫になるのをじっと眺めてでもいろと?
安心できる世界が消えてしまう前に、僕も消えるべきではないだろうか?
そうすれば、永遠にその世界と共にいられる。
とは言っても、これから先どうなるかだなんて誰にもわからない。
もしかしたら良くなるかもしれない。
わからない。
僕がそれを知ることはないだろう。
これからどうしよう?
どうしたらいいんだろう?
さっぱりわからない。
何もわからない。

とにかく、ここで手記を終える。
さようなら。

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…………ある冬の日、枯野で若者の死体が発見された。
銃で自分の頭を撃ち抜いていた。
死体は褐色の制服を着ていた。

この野原は、春には淡い色のルピナスがたくさん咲く。
しかし今は草も木々も、若者の制服の色と同じ褐色に枯れていた。











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