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ペシミズム 終

学問の過尊やめよ。試験全廃せよ。あそべ、寝転べ。我ら巨万の富貴を望まず。立て札なきたった十坪の青草原を!
紅顔の泣き虫。飴買って欲しさに今日も駄々こねる。

「語らざれば憂い全く無きに似たり」
とか。これだ!出し惜しみはいかん。けれど、徒手空拳。打てども打てども、ただ虚しく空を切るのみ。
たたく門?そんなものあるか。
陋屋(幽霊屋敷)の門なら叩き過ぎて壊れちゃった。

「かりそめの 人のなさけの身にしみて まなこうるむも老いのはじめや」

近頃など夜も更けて風呂上がりの際に一日の魂の労苦の疲れが堰を切ったようにどっと押し寄せる程に、いちどに明日の憂いも心身に伝わる思い。それでも生きていかなきゃならぬのかと半身ぐるりとうつ伏し
「もはや俺は俺のものではない」
両親の為に生きておる。紛うことなき、タール1㎜のタバコと発泡酒がその日の報酬。後は終日巣窟に放り投げ出され、来るはずのない面会人を待つだけの暮らし。
わかっております。僕は幸せです。生きてある事に常に感謝の念を忘れたことはありません。ただ、一日の終わりには日課の欄に「正」の字を付け足す習慣だけはお許しください。せめて自分への慰労の形だけでも欲しいのです。
他人に喜ばれぬ存在。けれども死ぬことは許されず。ただ閻魔様の裁きをじっと待つ者より。
散歩の際には出来るだけ帽子を目深に被って参ります。人に顔を見られるのが裸を見られるより恥ずかしいからです。
わけもないのにここに居る。わけがわからないからここに居る。
僕が身に受ける苦痛は普通の人のそれより取り分け重いもののようだ。

この一年で体重が15㎏減った。
先月、祖父が他界した際、初めて人の死に直面したのだが、別段悲しくもなく、「生」という束縛から解放されたふうにしか感じないのだ。「愛別離苦」と言うが、ある種の本能の働きかもしれないが、価値変動が時機的にその意味を変化させることも十分起こり得るのではなかろうかと思う。
参列者が棺に弔花を手向ける際に、亡骸の祖父にすがりつき嗚咽する叔母の姿が妙に芝居じみたものに感じられ、
「ああ、俺もいよいよここまで落ちぶれたのか」

とさも有りげな詫びしさに見舞われたのだった。

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