【第273回】『インヒアレント・ヴァイス』(ポール・トーマス・アンダーソン/2014)

 PTAのこれまでのフィルモグラフィを俯瞰で眺めると、20世紀と21世紀を跨いだ『パンチドランク・ラブ 』こそが変化の兆しだったと言わざるを得ない。『パンチドランク・ラブ 』の例外的な語りの柔らかさから一転し、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』からは一作ごとに霧に包まれたような難解な物語へと舵を切る。今作はこれまでアメリカ社会の病巣を鋭く抉り出してきたPTAの最新作である。原作は現代アメリカ文学の至宝とも言われるトマス・ピンチョンの2009年に刊行された長編小説『LAヴァイス』である。もともとピンチョンの作品は映画化困難と言われており、彼自身もこれまで自らの作品の映画化を許可したことがない。トマス・ピンチョンという作家は、現代のアメリカ文学を代表する小説家のひとりでありながら、公の場に一切姿を見せないことでも知られ、公式なインタビューはおこなわず、顔写真も学生時代と軍隊時代のものが2点のみ発見されているだけである。この作家を巡るミステリーさえも、PTAのフィルモグラフィにおける内在欠陥(インヒアレント・ヴァイス)を埋めるには十分だと言えはしないだろうか?

PTAは現代アメリカ史の様々な時代の転換点を鋭く切り取る作家である。彼の作品がある種の批評性を帯びているのは、同時代的ルックを真似るに飽き足らず、登場人物たちの栄華と没落の瞬間を同時に描くことで成立していたはずである。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』では19世紀末の開拓者の時代から、石油に魅せられた男とある宗教家の対立の中で、20世紀初頭の資産家たちの没落の歴史を描いていた。また『ザ・マスター』では1950年代に勃興した新興宗教団体の教祖と、PTSDに悩む兵士の交流を描くことで、第二次世界大戦に揺れるアメリカ社会を切り取っていた。

『ブギーナイツ』ではカリフォルニアにおけるポルノ映画の歴史を、70年代〜80年代の時代の変化に乗ることが出来なかった監督と男優の姿から的確に描写していた。PTAが執拗に描いてきたのは、時代こそ差があれど、生まれ故郷であるカリフォルニアの歴史に他ならない。細かい地域の差こそあれ、彼が自らのフィルモグラフィにおいて一貫して題材としてきたのは、故郷であるカリフォルニアの原風景である。その彼が遂に自分の生まれた世代である70年代の物語を題材として選んだのは感慨深い。原作において舞台となるのは、1969年の冬から1970年の夏にかけてのロサンゼルスである。

1969年と1970年の間に横たわる断層とは一体何であろうか?アメリカの歴史に精通している人なら自明だろうが、それはオルタモントの悲劇とマンソン事件を経て、急速にヒッピー・カルチャーが終焉に向かいつつあった時代を意味する。セックスとドラッグに塗れたサイケデリックな時代は終わりを迎え、ラブ&ピースだった時代から、ベトナム戦争の泥沼化とウォーターゲート事件による保守反動路線への転換点に位置するのである。

今作を観た時、アルトマンの『ロング・グッドバイ』やポランスキー『チャイナタウン』の影響を見るのは容易いが、実はPTAはそれらの映画以上に、ハワード・ホークスの『3つ数えろ』の不透明な語り口に影響されたと見るのが妥当であろう。1970年代初頭。ロサンゼルスに住むマリファナ中毒の私立探偵ドック(ホアキン・フェニックス)の前に、今も忘れることのできない元カノのシャスタ(キャサリン・ウォーターストン)が現れる。不動産業界の大富豪の愛人になったシャスタはドックに、カレの妻とその恋人が大富豪の拉致と監禁を企てていると訴え、その悪だくみを暴いてほしいと依頼する。だが捜査に踏み出したドックは殺人の濡れ衣を着せられ、大富豪もシャスタも失踪してしまう。そんな中、ドックは巨額が動く土地開発に絡む国際麻薬組織のきな臭い陰謀に巻き込まれていく……。

ドックは今作において、3つの解決すべき命題を背負う。1つは元カノであるシャスタに依頼された不動産業界の大富豪を拉致から救うミッションである。2つ目はホープ・ハーリンゲン(ジェナ・マローン)に依頼された夫コーイの疑惑の死に関するミッションである。3つ目は腐れ縁であるビッグフット(ジョシュ・ブローリン)との関係性の中に突如として出て来た相棒を巡る深遠なるミステリーである。まるで『マグノリア』における偶然に見えて必然だった物語のように、ドックはこの奇妙な第一のミッションに関わってしまったせいで、第2第3のミッションを引き入れることになる。

物語はまるで『チーチ&チョン』のように、オープニングからラストまでヘロヘロになったドックの行動が印象深い。思えば『ハードエイト』における初老のおやじの葉巻から、『ブギーナイツ』のマーク・ウォルバーグや『マグノリア』のメローラ・ウォルターズはヘロイン中毒、『ザ・マスター』では人間の死さえも招き入れかねない密造酒が実にドラッギーな武器として登場人物たちに持たらされていた。今作では彼らドラッギーな人物たちに自分語りをさせず、物語が夢オチや現実と空想が混同するのを避けるために、ソルティレージュ(ジョアンナ・ニューサム)による独白形式を採用したことが勝算の一つだろう。ソルティレージュはドックとシャスタの間にもごく普通に割って入る。あのウイジャ盤でマリファナが手に入る場面を占い、その場所まで一目散で走っていく場面は屈指の名場面である。

だがそれ以上に感慨深い名場面は、ドックとシャスタの2度にわたる事務所での再会の場面に他ならない。1度目は冒頭、ふいに最初のミッションとして明示されるが、シャスタの2度目の登場は、全く予期しない場面で起こる。ビッグ・フットとの電話でのやりとりの最中、元カノであるシャスタがふいにドックの前に現れる。その時の彼はもはやドラグでハイになっており、彼女の登場にも1単語でしか応えることが出来ないでいる。まったく論理的なやりとりが成立しない中、シャスタは生まれたままの姿でドックの前に現れる。彼女の口から語られる物語は、フィルムノワールにおいては、復讐の手口になったであろう。しかしながら21世紀の映画においては、これだけでは主人公が凶行に及ぶ動機にはならない。

今作では前作『ザ・マスター』同様に、単純なリバース・ショットがアクション映画並みの強度を持っている。クロッカー・フェンウェイ(ジャポニカの父)とのリバース・ショットには、通常のアクション映画と同等かそれ以上の張り詰めた空気がある。それは主人公とエイドリアン・プルシアが対峙した場面でも同等であり、抜き差しならない状況下に主人公のドックは追い込まれるのである。それはビッグ・フットにも救出不可能な危険な状況である。

クライマックスの壁蹴飛ばしは待望された表現である。ドックが1960年代を引きずったドラッグ中毒者ならば、ビッグ・フットは古き良き時代の刑事像に囚われている骨董品に違いない。チョコ・バナナやパンケーキを無性に愛する刑事の姿に、悲しき1960年代の刑事像を重ね合わせる。坂本九の『上を向いて歩こう』が流れる日本の定食屋は、これまでPTAが固執して描いてきたイミテーションされたアメリカの姿そのものではないだろうか?ヒッピー文化とLSDの影響をモロに受けた世代が、精神病院でリハビリを受ける羽目になるのはなんとも皮肉であるが、そこにPTAのこれまでの作品との類似点を見るのである。『インヒアレント・ヴァイス』にはこれまでの擬似父子の姿を観ることは叶わないものの、そこかしこにPTAの刻印が溢れている傑作である。

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