【第597回】『レッドタートル ある島の物語』(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット/2016)

 嵐の日の風の音が5秒間ほど真っ黒なスクリーンに流れ、映像に色が着いた時、男は大海原の津波の中に呑み込まれている。何とか息継ぎをしようと足をばたつかせてもがくが、海の流れは如何ともしがたい勢いで男を左右に揺らす。翌朝、嵐が去ってすっかり晴れた海岸線に男の死骸が漂着している。ヤシガニが彼のズボンの裾から中に入ると、死んでいると思われた男は突然目覚め、動き出す。嵐の中、荒れ狂う大海原に翻弄された男は、九死に一生を得てある無人島に流れ着いた。導入部分からの展開は、いわゆる『ロビンソン・クルーソー』のような漂流サヴァイヴァルものに近い。『十五少年漂流記』のような古典が世界各地に見られるこのジャンルは、アイヴァン・ライトマンの『6デイズ/7ナイツ』やピーター・ブルックの『蠅の王』など枚挙に遑がない。2000年代に入っても、ロバート・ゼメキスの『キャスト・アウェイ』や、日本映画でも篠崎誠の『東京島』が真っ先に思い出される。今作も当初は島に流れ着いた男が、何とかこの島で生きていこうと足掻き続ける。島の中を歩いて回り、食料を探しながら、同時に飲み水も確保しなければならない。彼は広大な島の中を何やら彷徨い歩く。

アニメーションの絵そのものは日本産のアニメーション作品のクオリティには遠く及ばないものの、朴訥とした味わいとロング・ショットの構図が妙に味わい深い。ちっぽけな男の足掻きは、島の広大な自然を前にして成す術もない。ゴツゴツした岩山に佇むちっぽけな男の姿をロング・ショットで据えた映像は、勅使河原宏の『砂の女』の砂漠に足を取られる岡田英次の姿を彷彿とさせる。やがて岩山(自然)の洗礼に遭い、男の身体は呆気なく岩山の真下にある幽閉された世界に放り出される。この島の迷路のように入り組んだ構造と様々な罠が男を苦しめる。岩山の造りは成人男性を阻むように狭く、入り組んだ路地は魚でなければ通り抜けることは困難だが、彼は何度目かの挑戦でようやく外の世界に舞い戻ることが出来た。南の島においては『キャスト・アウェイ』のように火を起こす必要がない。同じ極限の無人島生活でも少し容易にも見えるが、森の中に群生した竹薮の木を利用して作った筏での海への航海は3度阻まれる。竹で出来た頑丈な筏の下から、何者かが思いっきり体当たりし、男はギョッとする。恐る恐る海の中で筏の下を覗き込む男だったが、海面にはぶつかるような生物が見当たらない。だが確実に何者かが、彼の海への逃避行を阻むように立ち塞がるのである。

朴訥とした味わいのまるで水墨画のような淡い色調の絵は、数々のアニメのカラーリングに慣れた観客には物足りなく映るだろうが、その淡い色彩がかえって真っ赤なカメの色彩を際立たせる。神話的なカメの女が、まるで『鶴の恩返し』のように登場する段階になり、今作が凡庸な漂流サヴァイヴァルものの範疇を脱し、極めてスピリチュアルな物語だったことに気付く。1つも台詞のない物語は、無人島に男が1人取り残されたからではなく、無条件で現代の物語だと信じていた私に不思議な感慨を抱かせる。生まれた子供と3人で、砂浜にカメの絵を描くところで思ったのだが、ひょっとしてこれは旧約聖書『創世記』におけるアダムとイヴの大胆な別解釈ではないか?物語の後半、まだまだ幼い一粒種が父親と同じく岩山を滑り落ちるが、この島に愛された子供は親父と違い、いとも簡単にカメと共にこの窮地を乗り越える。後半、日本人に配慮し、一瞬躊躇した怒涛の津波の描写の中、父や母と違って、傷一つ負わない息子の神秘性も印象に残る。真空状態に置かれた主人公は全ての煩悩を失い、時間の不在の中を生きる。そこに開かれた文明への意識などもはやなく、自然と渾然一体化した原始な人間の在り様だけが浮かび上がる。神話的なカメのヒロインをもう少し幻想的に美しく描ければなお良かったが、多種多様な解釈が湧き出る不思議な作品である。ディズニーの『BFG/ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』同様に、スタジオ・ジブリ作品としては極めて珍品に違いない。

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