【第588回】『J・エドガー』(クリント・イーストウッド/2012)

 1960年代前半、ワシントンD.C.、ガラスケースに大事そうに入れられたジョン・デリンジャーのデスマスク(彼のことが知りたければ、マイケル・マンの『パブリック・エネミーズ』やジョン・ミリアスの『デリンジャー』を参照されたい)、難事件を解決した猟銃の数々が整然と並べられた部屋で、FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァー(レオナルド・ディカプリオ)はキング牧師への苛立ちを隠さない。共産党とつながったキング牧師が主導する公民権運動はやがてアメリカを滅ぼし、国家を蝕む元凶になると。激しい勢いでキング牧師を罵倒するフーヴァに対し、新聞記者はそんな中傷行為をすれば、FBIの評判に傷が付きかねないとやんわりと釘を刺す。だが彼は部下にキング牧師宅の盗聴を命じると共に、自身の伝記をスミス捜査官(エド・ウェストウィック)に筆記させる。ジョン・エドガー・フーヴァーは初代FBIの長官として、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンという8人もの大統領の間を務め上げ、FBIのリーダーとしての在位はおよそ40年にも及ぶ。FBIの前身となる司法省捜査局時代から、新設された過激派対策科を任されたフーヴァーは、ミッチェル・パーマー司法長官爆破事件から、類まれな才能を見せ、出世街道を駆け上がる。彼は幼い頃から兄よりも才能を見込まれ、母親アニー(ジュディ・デンチ)の尋常ならざる愛情を受けて育った。父親はもともと政界でキャリアを築いたエリートだったが、ある政変が元で失脚し、今は精神を病んでいる。家の前のベンチでボーッと外を眺めながら、フーヴァーが帰宅すると異様な形相で縋る父親の姿が一瞬だが印象に残る。ここでも『許されざる者』以降のイーストウッドに通底する父親の不在が露わになる。

フーヴァーがまだ駆け出しの頃、司法省の新人秘書ヘレン・ギャンディ(ナオミ・ワッツ)をデートに誘う。近代的なアメリカ国会図書館の外観、彼は人気のない夜の図書館の中で、図書館に集まる全ての蔵書のデータをインデックス化し、検索時間を飛躍的に向上させたアルバイト時代の功績を自慢げに話す。ストップ・ウォッチをヘレンにもたせ、図書館内を一気呵成に走り回るフーヴァーの行動は明らかに常軌を逸している。一連の作業の後、たった3回目のデートにも関わらず、フーヴァーはヘレンに結婚を申し出る。唇を強引に奪おうと顔を寄せるフーヴァーに対し、明らかな戸惑いを浮かべるヘレンの姿。「私は結婚よりも仕事に集中したいの」その答えに導かれるように、翌日からヘレンはフーヴァーの専属秘書となる。ヘレンとの関係性以上に、イーストウッドが強調するのがクライド・トルソン副長官(アーミー・ハマー)との尋常ならざる関係である。ジョン・フォードの『ドノバン珊瑚礁』のドロシー・ムーアとのロマンス(これ自体も衝撃的だが)の告白を受け、肉体関係の有無を聞いた後、明らかに取り乱すトルソンとフーヴァーのホテルの部屋での殴り合いは異様な光景となる。異様な光景は明らかに男同士の関係を暗喩しているが、それでもイーストウッドは観客の判断に委ねるとフーヴァーの性癖を明らかにしない。

今作のタイトルである『J・エドガー』とはジョン・エドガー・フーヴァーの親愛を込めた呼び方であり、「J・エドガー」と呼ぶのは大統領でも許されず、母親やトルソンやヘレンなど限られた人物だけが呼ぶことが出来た。イーストウッドは彼のホモセクシャリティと共に、トランスヴェスタイトの気も隠そうとしない。長年独身を貫き、社会的な信用があった一方で母親とは長年暮らしていた。フーヴァーがドロシー・ムーアやシャーリー・テンプルたちとコミュニケーションを取る姿は虚飾の姿であり、本当は鏡の前で母親と共に、自分の性癖を明かせないもどかしさを懺悔する。これまでもイーストウッドは一貫して、黒でも白でもない灰色な人物に興味・執着を示してきた。『Bird』のチャーリー・パーカー、『ホワイトハンター ブラックハート』のジョン・ヒューストンも栄光と挫折の両方を知る人物として描かれた。とりわけイーストウッドは破天荒に見える人物の陰の部分に固執する。亡き娘の亡霊に取り付かれた『Bird』のチャーリー・パーカーも、『アフリカの女王』の撮影前に、象を一頭仕留めねばならないというジョン・ヒューストンの強迫観念も、忽然と姿を消した息子の姿を探し歩くアンジェリーナ・ジョリーの描写も主人公の「妄執」に他ならない。今作におけるフーヴァーも正にこの「妄執」を自らの行動の動機とした人物である。フーヴァーとトルソンの関係性は最初の面接の場面から常軌を逸しており、映画はクライマックスに向かうに従い、徐々にメッキが剥がれたフーヴァーの姿を露わにする。官僚機構への苛立ちはこれまで幾度も見られたが、ここまで容赦ない痛烈なFBI批判は類を見ない。

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